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「自分の住む街でお気に入りの場所はある?」

たまに川へ行く。
家から歩いて3分くらいの大きな川だ。
幅は僕の感覚だと100mくらいで、かなり浅い。
なのに、豪雨の時はたまに溢れる。

昔、大豪雨の時に土手が崩れてしまい、かなり川沿いが綺麗に舗装された。
そんな川に今年からふらっと行くようになった。

「辛いことがあったときに行きたくなるんですよ。」とかカッコつけてみたいが、僕は辛いと思うことが滅多にないから、そんな大層な目的では川に行っていない。

離れる

僕は、いわゆる、都会に住んでいる。
最寄りの電車まで徒歩15分。そして電車に乗れば、ものの数分で福岡の中心地に着く。
近くにはなんだってあるし、ここで生まれ育ったことにとても満足している。

そんな僕が今年だけで3回も東京へ行き、気づいたことがある。

東京よりも福岡の方が、自然が、少ない。

先日投稿した根津美術館だって青山からすぐのところにあるし、明治神宮だって渋谷とそう離れていない。

「歩き疲れたときにちょっと一息。」
みたいなスポットが東京にはたくさんあった。

都心だけの話だけなのかもしれないが、「東京=ビルだらけ」という如何にも田舎者みたいなイメージを持っていた僕からすれば、それは驚きのことだった。

そして、それから福岡に帰ってみるとどうだ。
コロナ禍での外出自粛に疲れ、どこか自然に囲まれた場所で少しでもいいから癒されたいと、これまでの21年の都会生活の中で思いもしなかったことを願うようになった。
すぐに、自分が21年間で作り上げてきた頭の中の地図を開いてみるが、どこにもそんな自然はない。
あったとしても、誰からも管理されず地域の有名な自殺スポット(あくまでも噂)へと成り果ててしまった場所とかだ。

そんなところで癒されるわけがないから、引き続き徒歩で行ける緑に囲まれた場所を探すも、なかなか見つからない。

でも、もう僕は自然に触れないとダメになってしまいそうなくらい外出自粛に疲れていたから、頭に頼ることをやめ、Googleマップを開く。
が、実際に緑が全く見当たらない。
あっても小さな公園ばかりで、僕がそのときに求めていたものとは全く違う。

そう、途方に暮れていると、ふと思い出した。

先ほど出てきた、あの川だ。

見落としていた。
あまりにも近すぎて、馴染みすぎて、「思い出す」という記憶の範囲のその中にあるものすぎて、全く思い浮かんでこなかったのだ。

僕はすぐにマスクを携え、そこに向かい、久しぶりに外へ出た。

あ、そうだ!
偶然偶然、そのときのフィルムカメラで撮った写真があるんだった。
1%の確率で近所がバレるかもしれないが、そんなこと別にどうだっていいさ。

ご覧のように、川の周りにはビルやマンションが立ち並んでいる。
(1枚目の写真の赤橋の奥側がキレイに舗装されている。)(見えるかな?)

お世辞にも川は綺麗とは言えない。都心に近いからだろう。
が、なぜかそのときの川の水は不思議と透き通って見え、麗しさを感じた。

それほど家の中での生活に疲弊していたのだろうし、そもそも自然からあまりにもかけ離れた生活をしていたせいでもあるだろう。


そのことがあってから、僕は、特別な時でもなく、ただコンビニにふらっと行くように、この場所に訪れるようになった。


昨年の夏、ゼミの課外プロジェクトで高校生に対してとある授業を行ったのだが、そこで高校生に一つの質問をした。

「自分の住む街でお気に入りの場所はある?」

これは観光スポットなどを尋ねているのではなく、自分だけのスポットがあるかどうかを問うたもので、地域への愛着を確認するために行ったものだった。

多くの高校生たちが自分だけのお気に入りの場所を思い思いに紹介してくれたが、その質問者である僕が、実は、自分の街にお気に入りと言える場所を持っていなかった。

小学生・中学生の時によく友人たちと遊んだ場所、もっと小さい時に家族とよく来た場所。
そんなところはたくさんあったが、高校生・大学生になってからも定期的に通ったり、思い出したり、心の拠り所となるような場所は全くなかった。
今もそこに住み続けているのにも関わらず。

そう、僕は自分の知らないところで、地元、そして故郷から離れてしまっていたのだ。


それは、あまりにも悲しいことだと思うが、僕は偶然にもこんな家の近くにお気に入りのスポットを見つけ出すことができたのだ。
どうしてかは全く分からないけど、僕は、「良かった、助かった。」と思いながら、ここを見つけることができたのだ。

昨日の夜も、特に理由もなく、ふら〜っと真っ暗な闇に包まれた川に向かった。
お父さんのクローゼットで見つけた真っ赤なジャンバーに、お気に入りのイエローのトラウザーズ、緑のキャップを合わせた自分の姿を自宅のエレベーターの鏡で確認した時に、あまりにも他者からの目線を気にしてなさすぎゆ自分の自由さに、「あっ」と声が出てしまいそうだったが、そんな距離感だからこそ、あの川は僕のお気に入りなのだろう。
そうは言っても、今思い返せば、道中にある交番で声をかけられなかったのが不思議なくらいに変な格好だったな。

昼過ぎまで雨が降っていたからベンチにも座れず、ただ川沿いに突っ立って、たった一つの白電灯に灯された、流れているようにも流れていないようにも見える黒く透き通った水のうねりを見つめ続けた。

キラキラと黒光りする透明な水を見つめながら、僕の中は蠢いた。

-たった今、俺が見つめている水は、さっきまで僕を「キレイだ」と思わせていた水とは全くの別人なのだろうか。
-だとしたら、さっきのあの水はいまどこにいるのだろうか。
(視線を下流の方へ向ける。)

-10m先?
-100m先?
-(視線を戻し、)それともまだそこにいる?

-まあ、そんなことを考えたって答えなんて見つかるはずもないけど、こう考えることはできる。




-今、白い電灯の光に灯されている水が、さっきの水とは違うものだとしても、この景色がキレイであることに変わりはない。
-うん、本当にキレイだ。

-スポットライトに照らされた晴れやかなステージに辿り着いた水たちは、そこで自分の力の許す限り聴衆(僕)を楽しませようとする。
-来る水、来る水、全てが自分なりのうねりを見せて、次の真っ暗なステージ裏へとはけていく。

-それじゃあ、僕は?
-僕が生きているこの時代が、あの白い電灯に灯された場所だとしたら、僕はあの水たちのように精一杯の力でうねることができているのだろうか?
-力の許す限りを出すことができているだろうか?

-そうだ、僕はあの白く照らされたステージの上で踊るアーティストなのだ。
脚本家でも監督でもなく、僕が踊り、歌い、笑うのだ。

-一見、僕がいなくたって滞りなく動き続けるように見える世界。この世界だって、アーティストである僕が作っているのだ。
-いや、世界は80億人弱もいるのだから、「僕が」は言い過ぎか。
-僕も、作っているのだ。
-怠けちゃダメだ、無責任になっちゃだめだ、前に進まなくちゃ。
-僕も、この世界を作っているのだから。


たった15分で、こうやって自分で自分の背中を押し(いや、ひょっとしたら川に背中を押されたのかも?)、また自分の部屋へと戻った。

それが大きな力を持ってなくたっていい。
すぐに忘れて怠けてしまったっていい。

またふとしたときに、この川に会いに来ればいいんだから。

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