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本投稿は、Panasonic×note主催「#スポーツがくれたもの」コンテストにおいて、応募総数2,701通の中で唯一となる、冠スポンサーのお名前を冠した「Panasonic賞」を頂きました!!!ありがとうございます!!!



世の中には二種類の人が存在する。
障がい者か、それ以外か。

僕はがんになって初めてそのことに気付き、そして、真剣に考えるようになった。逆に言えば、”がんにならなければ気付かなかった”ということだ。

今思えば、情けないしとても恥ずかしい。でも、そのことに気付けた今となっては、僕はがんになって良かったのだと、心の底から思うことができる。

ただ、気づかせてくれたのはきっと"がんのおかげ"だけではない。僕が愛してやまず、生きていく上で絶対に欠かすことができない”スポーツ”があったからこそ、僕はそのことに気付くことができたのだ。



22歳で余命半年と宣告される

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僕は22歳のときに精巣腫瘍で入院し、約9ヶ月間に渡って闘病生活を過ごした。正式な病名は、「精巣腫瘍後腹膜リンパ節転移」。いわゆる、睾丸のがんだ。当時、5年生存率30%以下と診断され、治療開始してからほどなくして担当医師と面会した父親が、「先行きは非常に厳しい。このままだと余命半年。」と宣告されるほどの厳しい闘病だった。

結局僕は、命と引き換えに、左の腎臓と睾丸を失った。
腎臓は今のところあまり大きな影響はないけれど、睾丸を失ったことで男性ホルモンが低下し、筋力が大幅に落ちた。トレーニングをしても全くと言っていいほど筋肉がつかなくなった。

骨髄も、抗がん剤治療でボロボロになった。
担当の看護師からは「あなたの骨髄の数値では、貧血過ぎて立っていることさえ辛いはず」と言われた。

他にも挙げればきりがないほど、治療の後遺症はたくさんある。

でも、気を付けて生活してさえいれば、日常生活への支障はほとんどない。今のようにコロナ禍でなかなか外出ができない状況であれば、闘病前となんら変わらない毎日を送ることができる。

だから僕は、無事に"健常者として社会復帰させてくれた"当時の担当医師や看護師の方たちには心の底から感謝しているし、15年以上経った今でも、その感謝の念を忘れたことは一度もない。今でも、「何気ない日常を日々繰り返すだけの生活が何よりの幸せだ」ということを噛み締めながら過ごすことができている。

ただ、そこまで感謝している僕ですら、どうしても受け入れられないことが一つだけある。

それは、全力でサッカーができない、ということだ。



後遺症を抱えながらスポーツをするということ

僕は幼稚園から大学までずっとサッカーをプレーしていた。下手の横好きの典型だったけれど、社会人になってもずっとプレーし続けるつもりだった。サッカーには40歳以上の社会人リーグもあるが、そこでもプレーしたいと思っていた。

しかし、がんになったことで、その夢は23歳にして敢え無く潰えることとなった。

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それでも、僕の闘病を知る人は、再びピッチに戻った僕を寛大に迎え入れてくれた。時には「動けなくなったなぁ」と笑い飛ばされながらも、一緒にサッカーをプレーする喜びを分かち合ってくれた。彼らは、僕が今ここでボールを蹴っていることがどれほど奇跡的なことなのかを理解してくれていたので、僕も遠慮なくサッカーを楽しむことができたのだ。

ところが、僕の闘病を何も知らない人といきなり同じチームになると、事態は一変した。貧血で走れない、筋力の衰えにより踏ん張れない僕のプレーは、傍目からすれば”サボっている”ようにしか見えないようで、「なんでそこでボールを追わないんだ」、「なぜ今ボディコンタクトをしなかったんだ」などと厳しい非難を浴びるようになった。これは、競技志向の強いサッカーでは特に頻繁に起きた。

正直、何度も「お前に言われたくねぇ。」と思ったが、体を張ってプレーすることで存在価値を示してきた自分にとって、フィールドに立っているだけでやっとの選手は間違いなく足手纏いだし、そんな状況下で試合に出ている選手が悪いということも良くわかる。また、病気の説明をして動けないことを理解してもらおうと思っても、試合中に説明する時間などあるはずもない。だからと言って試合前に説明をしたら「そんな状態なのに試合に出るな」と言われて終わりだ。

だから僕は何も言わなかった。
自分のような後遺症を持つ人間がそもそも健常者と競い合うことなど不可能だし、何より不公平だとも思ったが、ただただ純粋にサッカーがしたかっただけの僕は、何を言われても言い返すことはしなかった。批判され、罵倒されても、黙って黙々とプレーすることを選択した。でも、そんな騙し騙しの環境でサッカーをプレーしても、楽しめるはずがなかった。

次第に僕はサッカーから距離を置くようになっていった。このときはもう二度と、サッカーに捧げた情熱を取り戻すことはないだろうと思っていた。もう二度と、スポーツで本気になることはないだろうと思っていた。

フットゴルフに出会うまでは。



"オリンピックとパラリンピック"という矛盾

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世の中には、障がい者の祭典と言われるパラリンピックがある。でも、障がい者には決められた枠組みがあって、その枠組みに入らなければパラリンピックには出ることができない。つまり、パラリンピックに出られない選手は、どんな障害を持っていようと、どんなハンデを背負っていようと、オリンピックを目指すしかないのだ。

これが、僕が世の中には二種類の人がいると話す所以だ。

オリンピックとパラリンピックという二つの祭典を否定する気は毛頭ない。僕自身、スポーツビジネスに関わっているし、何よりスポーツが大好きだ。闘病中に開催されたアテネオリンピックでは、何度となく闘病に立ち向かう勇気と生きる活力を与えてもらった経験もある。コロナ禍で先行きは不透明だが、こんな状況だからこそ、東京五輪は何があっても絶対に開催するべきだと思っている。

ただ、前述したように、僕のような”非健常者”が、健常者に混じって競技スポーツを行うのはどう考えても不公平だ。「障がい者か、それ以外か」、「パラリンピックか、オリンピックか」。一見正しいように見えるこの分類は、僕のような非健常者が競技スポーツを嗜む上ではとてつもなく重い足かせとなり、その権利を妨げているように感じた。「全力でスポーツがしたい。本気で世界を目指したい。」ただそれだけのことが、今の世の中では難しい。僕は非健常者になって初めて、そのことに気付いたのだ。

言葉を選ばずに言うが、僕も何度も、「健常者ではなく障がい者にしてくれたら良かったのに。パラリンピックに出れる身体にしてくれれば良かったのに。」と思ったことがある。それほどまでに、才能もない、努力もできない自分のような人間ですら、競技スポーツの舞台から遠ざかることは簡単には受け入れられるものではなかった。

だから僕は必死に探した。非健常者でもサッカーが楽しめる環境を。サッカーの代わりに、全力でプレーできるスポーツを。健常者にも障がい者にも当てはまらない僕のような非健常者でも、本気の勝負ができる競技スポーツを。

その答えを見つけるのに10年の月日を費やした。
そして出会ったのが、フットゴルフだった。



"フットゴルフ"というニュースポーツが教えてくれたこと

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僕は、2018年12月にモロッコで行われたフットゴルフワールドカップに日本代表として出場した。健常者に混じって国内ツアーに参加し、健常者として代表の座を勝ち取った。

マイナー競技とは言え、がん闘病後に健常者スポーツで日本代表に初選出されたのは、僕が初めてなのではないかと思う。(※)

日本代表に選ばれるまでは、自分ががんになったこと、後遺症があることは公にはしなかった。純粋に、健常者として勝負したかったから。走る必要もなく、接触プレーもないフットゴルフでなら、健常者と対等に勝負ができると思ったから。

勝負する、と決めてからは、全ての軸をフットゴルフ中心に据えた。ワールドカップに出場し、結果を残すことを目標にトレーニングメニューを考えた。30kgを1回しか持ち上げられなかったレッグプレスは、100kg×100回×3セットが基本メニューになった。1時間以上かかった7.5kmのマラソンコースは、40分で走れるようになった。退院時、ベッドの縁に30秒座ることから始めたリハビリのことを考えれば、良くここまで身体を戻せたなと思うし、まだまだやればできるということを身をもって体感した一年でもあった。努力の甲斐もあって、モロッコでは、がんになって15年経った中で一番良いキックができたし、そこから見える景色は、今までとは全く違うものだった。

でも、だからこそ見えたものもたくさんある。世界への挑戦は、自分が想像していたよりずっと厳しく、そして険しいものだった。パットのたびに足が震えた。キックのたびに呼吸は乱れ、心拍数は上昇し、頭は真っ白になった。あんなに辛いフットゴルフは初めてだった。

上を目指せば目指すほど、その高みに気づく。当たり前のことだが、今までは闇雲に、目指すべき目標もわからず、ただただガムシャラに突っ走っていただけだったんだと、大事なワールドカップの舞台に立って初めて気づかされた。こんなにも自分の無力さを痛感する大会になるとは思ってもみなかった。

それでも、得たものもたくさんあった。
闘病してからはずっと、スポーツをする上ではどこかで遠慮していたし、周りからの無言の圧力を感じたり、どこかで陰口を叩かれているような気がしたり、軽蔑の眼差しで見られているような錯覚に陥ったりして、純粋にスポーツを楽しめなくなっていた。被害妄想かもしれないが、一度感じた疑念はちょっとやそっとじゃ拭い切れるモノではなかった。だけど、日本代表に選ばれたことで、失った自尊心や自己肯定感を取り戻すことができ、その憂いはなくなった。
同じ舞台で切磋琢磨し、同じレベルで物事を考えられる新しい仲間もできた。フットゴルフでなら、遠慮なく本音でぶつかりあえるようになったし、一緒に夢を語り合うことができるようになった。
非健常者になってから忘れかけていた、”人生の全てを賭けて挑戦する”というメンタリティも取り戻すことができた。

何より、楽しかった。

ワールドカップ出場を目標に努力し続けた一年間は、社会復帰してからの16年の中で圧倒的に充実していたし、ワールドカップに出場した夢のような二週間は、今まで生きてきた中で一番幸せな時間だったと思う。

僕はフットゴルフと出会い、フットゴルフと真剣に向き合う中で、いつしかサッカーに捧げた情熱を、フットゴルフでも捧げられるようになっていた。そして、サッカーをプレーしていたときには気付かなかったたくさんのことに気付くことができたのだ。

単純に年を取り、周りを俯瞰して見れるようになったことも影響しているのかもしれない。自分が今スポーツビジネスに携わる中でスポーツの新たな価値に気付き、それを身を持って体感できたことが大きいのかもしれない。でも、がんになり、非健常者になり、フットゴルフと出会わなければ、僕はきっと、この新たな気付きを手に入れることはできなかっただろう。



健常者と障がい者の狭間で揺れる非健常者にも、競技スポーツを楽しむ権利と機会を

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フットゴルフという競技が生まれ、ワールドカップという舞台ができたことで、健常者と障害者の狭間に取り残された僕のような人間が、再び競技スポーツの世界に戻り、世界を目指せるようになった。競技の大小は関係ない。プロかアマか、メジャーかマイナーかもさほど重要ではないと思う。大事なのは、その人が他の何よりも、その競技に情熱を捧げられるかどうかだ。

僕はフットゴルフを通じて、そう学んだ。そして、改めて、スポーツの素晴らしさに気づくことができた。

今では、フットゴルフに関わることは僕の生きがいであり、ライフワークでもある。だから僕は、僕と同じように、病気や不慮の事故で今まで通りに動けなくなった人たちにも競技スポーツに触れて欲しいし、できることなら一緒に切磋琢磨していきたいと思っている。

これからは、僕が身を持って体感したスポーツの新たな価値を、誰もが体感できる世の中を実現していきたい。様々な競技において、障がい者の枠に収まらない非健常者でも、本気で世界を目指せる世の中を創出していきたい。

スポーツには、人々に夢を与え、その夢に向かって邁進する圧倒的なエネルギーを産み出す力がある。夢は目標を作り、目標は毎日の計画を変えていく。そして計画は、日々の暮らしに目的を与え、その目的は刺激となって生活に張りをもたらす。そしてその張りは、生きる上でのモチベーションとなり、人生をより一層豊かにしてくれるはずだ。

僕はそう信じている。


(※)海外での前例は確認済です。もし、がん闘病後に健常者スポーツで日本代表に初選出された方をご存じの方はご連絡頂けますと嬉しいです。謹んで訂正させて頂きます。

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