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#5 アンタは橋の下で拾った子 ~小学生時代(2)~

(前回の記事)手を挙げたくても挙げられない ~小学生時代(1)~

 どうしてこんなに自己主張をするのが怖かったのか、この理由をただ単に「内気で人見知りな性格だから。」で済ませたくないので、今回改めて考えてみた。

 すると、やはり「母親」との関係性に行きつく。

 「しつけ」と称して、当時、どんなことを親から教えてもらえたのか、どんなことを親からされたのか、一生懸命思い出してみた。

 弟とケンカすれば、「ふとんたたき」でたたかれたこともあった。あるいは外に出されて玄関にカギを掛けられて家の中に入れなくされたこともあった。

 「おかあさんは、仕事しているんだから、茶碗ぐらい洗ってお手伝いしなさい!」

と母が言うので、見よう見まねで食器洗いを始めると、

 「何?その洗い方は!茶碗も洗えんのか!ホントあんたはどんくさいねえ!」

と強い口調で言うのだ。洗い方を教えてもらったのであれば、なんとか我慢できるのだが、見よう見まねでやって失敗してこのように言われるのだから、立つ瀬がない。

 そういうやりとりを見ている弟の「あっくん」は、その点要領がよく、食器洗いも何とかこなしてしまうので、私の立場はより難しいものとなってしまうのだった。

 そして、ある日、母から衝撃の告白をされた。

 それは、母のおなかに、もう一人の新たな命が宿っていると聞いたときのことだった。「おかあさん、ぼくもお腹の中にいたの?」と私が母に尋ねると、

 「あっくんは、私のおなかから生まれた子。アンタは橋の下で拾った子。」

 もちろん、母子手帳もあったし、間違いなく母のおなかから生まれた子だったのだが、それにしても私の育った家の雰囲気からすれば、たちの悪い冗談だ。

 百歩譲って、ニッコリ笑顔で、「いかにも冗談ですよ~」という表情と口調で言ったのであれば、「はい、はい。出ました。」とさらっと流すことができたのであろうが、そんな冗談が頻繁に飛び交うような明るい家庭ではなかったから、母は冗談のつもりでも、私には冗談としては伝わらなかった。

 いや、きっと母のあの発言は半分は本気だったのであろう。私の存在は、母にとってはストレス発散の格好の対象だったのであろうか。しかし、発散対象にされた私はたまったものではなかった。当然、今でもその光景を思い出せるほど、私の脳内そして心の中に強烈に刻み込まれる出来事となったのだ。

 どうして、あんな意地悪な発言が口をついて出てくるのか。実の母親であるにもかかわらず。聞くところによると、結構定番の親の発言というか、昔から語り継がれる伝家の宝刀のようなものだったそうで、だとすると日本人は、児童に対する心理的虐待を綿々と受け継いできた、陰湿で悲しい民族だ。また、「桃太郎」を由来として、「子どもに『桃太郎のように強い大人になってほしい』という願いがこもっているのだ」という説もあるが、たちの悪い冗談だ。少なくとも私の当時の状況では、「桃太郎のように強くなってほしい」という母親からの励ましだったなんてとても思えない。

 実際自分の周りの他の人はどうだったんだろうかと、機会があった時に聞いてみると、「あ~、言われた言われた。」という声は多かった。それが、親のたわいもない冗談として済ませている人と、私のように心の傷として今でも尾を引いている人と様々だったが、お互いにとって何の得にもならない、このデリカシーのない発言がどうして語り継がれてきたのか、解明できると「人間の本質」をもしかしたら理解できるのかもしれない。つくづく人間というのは本当に不思議な生き物であると私は思う。

 とにかく、当時の私は、母に自己主張すれば否定され、そしてそれは「怖れ」となり、学校では自己主張したくても「怖くて」できなかった。でも、私の心の中の「母に認められたい」という思い、そして「自分をもっと見てほしい」という思いはますます強くなっていった。その思いは、学校のテストで好成績をとることで少しは満たされるのだが、それはほんのわずかに過ぎず、その満たされない思いを、別の形で満たしていくことになる

                             (つづく)

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