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介護離職して、10年以上介護をしながら、50歳を超えて臨床心理士になった理由⑤

 突然、介護を始める事になったのは、30代の後半だった。母親に合った病院に入院できるまで、いろいろなことがあり、私自身も心臓の発作を起こし、介護離職をして、介護に専念する日々が続いた。妻の母親である義母も、介護が必要になっていた。私が、40代半ばになる頃、母親が病院で亡くなった。

 2007年の5月に、母が死んで、介護が必要な家族は、妻の母親である義母一人だけになった。義母がずっと住んでいる家に同居し、妻と私が介護を続ける毎日は変わらなかった。
 その当時で、要介護3の義母は、耳は聞こえず、1日中、ほぼベッドの上にいるだけの生活なのに、食欲はあり、気持ちも元気だったのだが、それでもゆっくりと下り坂を下がっていくようだった。

 介護の負担が重くなってきていて、妻がそのことで泣いたりした。
 これから、どうしよう、仕事を始められるかも、と密かに、思っていた時だった。

 希望を語る前に、気持ちの中で無理だと思い、仕事のことは、あきらめた。介護に集中しようと思った。
 義母の介護を、妻といっしょにやっていかないと、妻が過労で、先に死んでしまうと思った。私が心臓の病気を抱え、妻も介護の途中でぜんそくを持ってしまっていた。

 今までと違って、私や妻がほぼ全面的に排泄介助もしようと予定を変えざるを得なくなっていた。昼間は主に妻が連れていき、夜間は、午前3時くらいまで私が担当。そして、午前7時から、また妻にみてもらうようにした。
  

 義母の年金や、母が残してくれた貯金などのおかげで、あと何年かは介護に専念する生活が出来そうだった。恵まれているとも思った。それでも、私も妻も持病を持つことになってしまい、その中で「過労死」や「介護死」をしないためには、2人で本当に力を合わせないと無理だと思った。

 義母の介護負担が重くなった頃に、それに気を使うかのように死んだ母のことを思うと、また何ともいえない悲しさのまじった気持ちになったりもした。


 これまでの8年間は、家の外の世界があるのはもちろん分かってはいたが、病院と家の外側は、まるで砂しかない砂漠のように、どこか自分と関係ないような気持ちでいた。自分で視野を狭くしていたのかもしれない。それに改めて気がついた。


 その頃から本気で大学院へ行って、心理支援の専門家である臨床心理士の資格をとり、介護している人のサポートをして、少しでも介護者の負担を減らすことができれば、と思うようになった。母の遺してくれたお金で、学費も何とか賄えそうだと目処がついたからだ。自分の将来のために少しでも希望が欲しい気持ちもあった。
 この時でも、介護殺人や心中は年間で30件以上もあった。虐待も1万件以上、そのことは、今でも、他人事ではなかった。きわどいところにいるのは変らなかった。


 義母の生活のリズムに合わせているので、私の就寝時刻も、少しずつ遅くなっていった。
 いつの間にか、私は、午前3時半ごろまで起きるようになったが、介護の合間に勉強を始めた。介護は拘束時間はとんでもなく長いが、すき間時間が多いので、久しぶりの受験勉強と、意外と相性がよかった。

 ただ、若い時に行った大学の学部は法学部だったし、そのあとは、マスメディアの世界で働いた経験しかなく、何も知らなかった。まず、大きめの本屋へ行って、心理系の大学院を受験するための参考書を買って、一人で読み始めた。最初は、『すぐにわかる』みたいな文字が、大きく表紙にある参考書を買って、失敗もして、インターネットでも情報を得て、カタカナの出版社は一部をのぞいて気をつけたほうがいい、といった「常識」も知った。

 少しずつその生活になじみ始めたが、いつになったら受かるのかまったく予想もつかなかった。母が残してくれた、お金は減る一方だから、無限に挑戦できるわけでもなかった。そのうちに時間が過ぎ、そのリミットを過ぎてしまうかもしれなかった。

 不安しかなかった。
 そういう中で年齢だけは重なっていた。
 介護を始めた頃は30代後半だったのが、いつのまにか40代後半になっていた。

 勉強を始めて半年くらいたった頃、何の指針もないので、模擬試験を探したら、1つだけ見つかった。中央線沿線のその予備校へ問い合わせて、受けることにした。夏のある日に、その会場へ行った。大学受験で浪人して以来だから、30年ぶりくらいなのに、そこにしかない独特の微妙に重い空気はすごく似ていた。

 予備校の教師が、自分よりもかなり年下ばかりなのは、見れば分かった。試験が始まる前になり、周りがとても若い人ばかりで、時々、すごくきれいな女性がいたりして、気になって仕方がなかった。これまでの環境と違いすぎた。

 試験が始まる前、当たり前だけど、けっこうな緊張感がすぐに広まっていく。
ほぼ20代。それも前半。ほんの2、3人が明らかに定年後といった人たちがいる。
 私のようないわゆる働き盛りの年代はいない。試験用紙が配られ、教室の前にある細長い緑の黒板を見ていたら、なにか、こみあげるような気持ちになった。

 こんな展開になるなんて、2年前までは思いもしなかった。母親の介護が終わる頃には、体も気持ちも経済的にも、もっとボロボロになっている自分しか想像できなかった。
 未来のことを考えないようにしていたので、なんとか希望のない介護生活が出来たのかもしれない。自分の先のことなんて、まったく考えていなかった。10年ぶりくらいに、自分の将来に関係することを考えられるようになったのに気がついた。なんだかいろいろな強い気持ちでいっぱいになり、まだ何もしていないのに、泣きそうな気持ちになった。


 その頃、家族介護者同士で「介護しない人には分かりませんよね」と、ためいきと共に語られる言葉にさえ、『「逆差別」と介護の専門家が指摘している』という話を聞いた。その専門家が、家族介護者の支援をしている人だとも知った。
なんだか、外側への期待そのものも消えたような気がした。

 自分の能力が低く、歳を取りすぎていたとしても、自分が専門家になって、とても微力だとしても、介護者のサポートをしたいと、より思うようになった。
 最初の模擬試験の合格判定はD判定だったし、大学院にいつ受かるか、まったくメドがつかなかった。一度受けると、模擬試験はいくらか割引をしてくれた。何度か受けたが、合格確率は、それほどあがらなかった。
 意欲はあっても、無職の中年が、専門家になって介護者をサボートとしたいと思う事自体が、どこか不遜だし、滑稽に聞こえることではないか、といった気持ちも消えなかった。


それから、時間がさらにたった。

 2度目の受験で、2010年の2月に、合格通知が来た時、妻は泣いて喜んでくれた。
 そのことが何より、うれしかった。

 

 大学院の講座は、臨床心理学を本格的に学ぶのが初めてだったから、とまどいもあった。昔、インタビューで身に付けたはずの「聞く技術」に対して、自信もあったはずなのに、臨床心理士の「面接」は、質が違うことが分かり、かえって向いてないのではないか、と思った。  
 勉強なり、学問は、これまでは自分を変えずに、「武装」するように身につけるものだと思っていたが、本当は、自分が質的に変化しないと、学んだといえない事を知った。だから、本当に痛みを感じるほど、つらさもあったが、その一方で、学生生活は、天国のように楽しかった。

 同期の約半分は、学部卒だから、20代前半だった。若い人は、キラキラして見えた。社会人の同期は、経験豊富で、有能な人たちだった。先輩や後輩にも、周囲の人たちに恵まれ、教授の方々にも恵まれ、本当にありがたかった。50歳近くになって、そんな素直な気持ちになれるのが自分でも意外だった。臨床心理学を学ぶ事自体も、大変ではあったのだけど、とても楽しかった。学校に対して、そんな気持ちになれたのも、初めてだった。

 家族介護者をテーマにした修士論文で苦戦した。2年間で、論文の内容を縮小すれば完成できるまでは、出来た。口頭発表でも、ほぼ出来ているように見えたはずだ。でも、もっと、自分の最初のプラン通り、きちんと仕上げたかったから、妻とも相談して、修了までを、1年伸ばした。


 2013年3月に、3年かけて、大学院を修了し、それから仕事を探した。 その頃は午前4時半くらいまで、義母の介護をしていたし、働ける時間に限界はあった。
 3年間、ずっととても楽しかった学生生活の帳尻を合わせるように、それからは辛い1年間だった。

 履歴書を送っても、すぐに戻ってきた。合計で50通くらいを超え、ただ、履歴書が戻ってくる事が繰り返されると、本当に、自分を否定されたような気がして、けっこう落ち込んでくる。面接まで進めたのは、3カ所くらいだったが、それも落ちた。経験もない50歳を超えた人間を雇うところは、あるとは思えなかった。

 それでも、「介護カフェを始めたい」というブログを見つけ、それが、隣の街にあるカフェと知り、直接訪ね、カフェのオーナーにお願いをして、「介護相談」のボランティアを始められた。

 さらに、その年の秋の臨床心理士の資格試験には、なんとか合格できた。52歳になっていた。

 2014年の夏頃になって、臨床心理士のベテランの先生に紹介してもらって、某区役所で「介護相談」の仕事も始めることができた。月に1度のペースだったが、介護者への個別で継続的な心理的支援だったから、目標としていた仕事だったし、ものすごくありがたかったし、恵まれていると思った。

 さらに時間はたった。
 義母は、下り坂を降って行った。

 要介護4になった。
 2015年、100歳を目前に、認知症とも診断された。
 歩けず、耳も聞こえない。それでも、基本的に、明るく、邪気が少なく、食欲はあり、そういう意味では、気持ちは楽だった。

「介護相談」は、幸いにも続けられたが、それ以上、ほとんど仕事が増えなかった。介護者への個別の心理的支援の話をすると、その必要性に同意してくれる人は多くなった印象だったが、相談窓口が劇的に増えることもないまま、年数がたった。

 私と妻の介護負担は微妙に増え続け、義母のリズムに合わせていくと、私の就寝時刻も遅くなり、午前5時半をすぎるようになった。体もつらくなり、矛盾した状況だけど、もし仕事が増えたとして、気持ちとしては嬉しくても、体的には、できないと思った。私と妻で、結果として、ほぼ24時間の介護体制になっていた。

 

 2015年の暮れに、義母は100歳を迎えることができた。

 さらに、時間がたった。
 妻も負担の重さを訴えるようになり、義母に施設入所のことを聞いたことがあったが、その時は、はっきりと、それを拒絶した。
 家でみていくしかないのか、と弱々しく覚悟もした。


 目の前に輝くアメーバみたいなものが見えて、前が見えなくなったことがあった。これは、もしかして、芥川龍之介が見た「歯車」ではないか、と思い、こわくなったが、いよいよ、そういうものが見えるようになったかと思うと、ゆがんだ高揚感もあった。焦って、眼医者に行き、少し説明したら、すぐに閃輝暗点(せんきあんてん)と、最初聞いただけでは分からない病名を言われた。医師は“目には異常がありませんから、次に見えたら、脳外科に行ってください”と言われた。ただ、その後、何回か同じものを見たが、少し耐えることでやり過ごしていた。

 2018年の暮れ。
 義母は、いつものようにデイサービスへでかけ、昼食を前にして、意識を失ったと、連絡が来た。その日は、月曜日で、病院に運ばれ、医師には、重い脳梗塞で、いつ亡くなってもおかしくないとも言われた。
 水曜日の深夜に亡くなった。103歳だった。

 葬儀も、本当に身内だけで、ささやかにおこなった。
 19年の介護生活が、突然終わった。

 もっと優しくできなかったのだろうかと、後悔もあった。
 100歳を超えたら亡くなってもおめでたい、といった言葉を過去に聞いた記憶もあるし、自分でもそう思ったこともあったかもしれないけれど、実際に、そういうことがあると、おめでたい気持ちはまったくなかった。
 まだ、何年も生きてくれると思っていた。
 私や妻が、もっとボロボロになる前に、気を使ったのだろうか、と思うことさえあった。

 介護を始めたのが30代後半だった。終わったら50代後半になっていた。
 うそみたいだった。

 介護が終わり、1年以上がたって、やっと緊張が減ってきたようだった。
 寝たらダメだ、という気持ちが抜けず、早く寝るのにこわさがあり、最初は、介護が終わったのに、午前5時くらいまで眠れなかったのが、少しずつ早く眠れるようになり、やっと午前3時くらいには、眠くなるようになってきた。閃輝暗点(せんきあんてん)は、介護が終わったら、見ることはなくなった。

 まだ介護を続けていた2018年9月に資格試験を受け、初めての心理職の国家資格である公認心理師の資格もとることができたのは、2019年のことだった。



 大学院に入学した時からだと、もう10年がたとうとしているのだけど、家族介護者の心理への理解は、あまり進んでいないように感じている。 今は、自分が専門家の端くれにもなっているので、理解が進んでいないことは、すでに自分の責任でもある。


 臨床心理士は、あまり人前に出るようなことはしない方がいい、とも思ってきましたが、このままだと、家族介護者への理解は、本当に進まないのでは、と思うようにもなりました。 

 また、家族介護者の個別的な心理的支援の「相談窓口」も、このままだと、あまり増えないまま、そして、不遜な言い方になりますが、介護殺人のような事件も減らないままになってしまうのではないか、と危機感もあって、こうして書いて、伝えることを始めました。

 ところで、2014年に始めることができた某区役所での「介護相談」は、1年ごとの契約更新にもかかわらず、スタッフの方々の理解や尽力のおかげで、相談者の方に、ずっといらしていただき、幸いにも続けられて、今年度(2020年)で、7年目を迎えられています。


 長い文章を最後まで、読んでいただき、本当に、ありがとうございました。

 今後も、介護に関して、いろいろな事を書いていこうと思っています。

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『「介護時間」の光景①」

『「介護相談」のボランティアをしています』

『家族介護者の気持ち』①介護のはじまり・突然はじまる混沌



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