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(51) 知可子 ー 2mの気持ち

意味はなかった。
ただ、明る過ぎるのが気恥ずかしい気がしていた知可子は、ちょっとした取付工事をしてもらい、部屋の灯りを全て間接照明に換えた。壁から天井に向けて、淡い灯りが扇状に独特の雰囲気を醸し出している。部屋全体の明るさのトーンが落ちて、柔らかになり、物に奥行きが感じられるようにもなった。知可子は気に入っていた。

「良ちゃん、さっきから黙り込んでるけど、何か考えてるんだ?」
「うん、ごめん。考えてるってわけじゃないけど、どうもテンションが上がらなくて・・・」
「ご飯でも食べに行く?」
「知可、ごめん。どうも食欲なくて・・・。久しぶりに会ったのに・・・気分が沈んでこの頃どうにもならないんだ」

知可子の視線をずらすかのように、良平は窓の外に目をやった。
「そうだ、私、仕事残ってるんだった。良ちゃん、ごめん。今日はこれで帰ろ」
知可子は時計を見てわざと急いでみせた。
「知可、悪いな、俺・・・」
「気にしない、気にしない。誰でもそんな時あるよ。無理しないことよ。深刻にならないで、流れに身を任せてみるのも手かも知れないよ」
知可子は良平の目を見て、精一杯笑ってみせた。
「良ちゃん、また電話して。いつもみたいにFAXってのもいいわよ」
「すまない、知可。君の心遣いには感謝している。本当にありがとう。今日は送らないけど、気をつけて帰ってくれ。落ち着いたら連絡するよ。じゃあ仕事頑張って。知可・・・ありがとう」

地下鉄の階段を下りる良平を、知可子は母親のような気持ちで見送った。何か切なくて、やり切れない思いで胸がつまった。いつもなら、階段を下りながら、振り返ってオーバーなギャグを送る良平だが、急ぐ乗客に紛れて、すぐにその姿が見えなくなった。知可子は、すぐにその場を立ち去ることがどうしても出来なかった。

知可子 様

今日、赤いセーターを買った。いつか知可が言ってただろ。何かきっかけが必要だって・・・。あのひと言の深さが、今、身に沁みてよくわかる気がする。知可も考えるところがあって、部屋の照明換えたんだ。詳しく話してくれなかったけど、よくわかるよ。

俺、その場の勢いで、「組織の人間なんかになりたくない」とか意地張って、結局職に就かずアルバイトで今日まで来てしまった。知可も知ってるように、世の中の流れに染まりたくなくて、携帯も持たずに今時FAXなんて使ってやり取りするような時代遅れな生き方を選んだ。でも音楽で食って行けるなんて甘い考えもないし、音楽でないとダメだなんて固く考えているわけでもないんだ。近頃思うんだ。俺、結局何もしたくないんじゃないかな、なんて・・・。そう考えると、何も手につかず、俺はいったい生きているのか死んでいるのか、っていうのもわからなくなる。時々、身動きさえも出来なくなって、無性に怖くて、背中をさ、壁に押し付けてうずくまってしまう。部屋の灯りを全部灯して、打ち込んだ曲のボリュームをいっぱいにして聴こうとするんだけど、何かホワンホワンと歪んで聴こえるんだ。俺、こんなんじゃ変になるって思う。

知可も知ってるように、俺、卒業して夏頃までは絶好調だった。曲も順調に出来たし、デモテープも色んなレーベルに売り込んだりもした。それなりの評価も受けた。何よりも、俺は拘束されていない自分が素敵だと思ったし、気の向くまま曲を作って、少しだけアルバイトをして、という生活に満足していた。暇にまかせて、人のいなくなった9月の終わりに青森に行ったら・・・変な言い方になるけど、お年寄りの多いのには驚いた。まぁ、当然だと思うけど、若者は田舎を捨ててるんだろう。りんご畑での収穫も、もちろんお年寄りの仕事だった。街を歩いても学生以外、本当に若い人たちがいないんだ。不思議な気持ちになった。考えてもみなかったけど、俺の行く末・・・どうなんだろうって・・・。無性にこんなんじゃダメだと思って、そう思うと、どんどんそのことが頭から離れなくなって、何か自分が空虚な存在に思えて、どうしようもなくなるんだ。この二ヶ月、アルバイトも休みがちだし、曲も作れていないんだ。何もしない日が過ぎて、これではダメだと思うと、気持ちが焦るばかりで何も手がつかないんだ。この二ヶ月の間に、一日中あてもなく歩き続けた日が何日もある。25km程歩いた日もあった。

この間、知可に会った日、知可の顔がまともに見られなくて・・・知可の前にいてはいけないんじゃないかと強く思った。一刻も早く知可の前から立ち去りたくて、消えてしまいたいと思った。地下鉄の階段を下りる時、強く背中に君の視線を感じ、痛かった。このまま溶けてなくなってしまいたいという衝動に駆られて、自分が小さくなって階段のコンクリートに同化していく感覚だった。階段を下りる実感も、身の重さもなくなる思いがした。部屋へ帰るのがやっとだった。

知可、君との将来のこと、自分の今後、それを考えると、重いんだ。逃げているわけでもないし、不真面目な気持ちでいっているわけではないんだ。今日、新宿の「M」で赤いセーターを買った。その場ですぐに着替えた。その時に着ていた、君と一緒に行った時に買ったあのトレーナーはその場で処分してもらうように頼んだ。きっかけになればと思って・・・。

ジャンバーのジッパーを中程まで下ろして、出来るだけセーターが見えるようにした。不思議な気がした。いい歳をして、こんなことに一生懸命になっている自分が・・・でも、何か・・・そう、可愛い気がした。知可に無性に会いたいと思った。知可、「流れに身を任せてみるのも手かも知れないね」
あのひと言で、俺、とっても気が楽になったんだ、と今、そう思う。しばらく、このままでやってみようと思う。自分で選んだことでもあるし、そうしたかったのは事実なんだし・・・。ひとつひとつ実感を大切に味わってみようと思うんだ。知可、ありがとう。

良平

追伸
たぶんこのFAX2mくらいになると思う。
いつもは一行だけど、気持ちは同じです。

良平からのFAXを読み終えると、知可子は壁の間接照明だけを残し、一切のスイッチを切り、良平の曲を流した。良平からの2mを読み返し、知可子は涙を抑えることが出来なかった。これ程までに良平が苦しんでいたのかと思うと、無性に自分が情けなく思えてくるのだった。片方の壁の照明の灯りが円錐型に膨らみ、天井の広範な部分が柔らかなオレンジ色に染められ、良平の電子音が軽いタッチで同じフレーズを幾度となく繰り返している。知可子は、良平を真似て背中を強く壁に押し当ててみた。小さくうずくまるように。

「胎児は、確かこんな格好で母親のお腹の中にいるんだったわ」

ふとそう独り言をつぶやき、どんなにか良平が辛い思いをして来たのか、そして、一人で必死に耐えようとしてきたのかを思うと、胸が痛んだ。
知可子は、ヘッドホンをつけ、ボリュームをいっぱいに上げた。


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