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誰にでもわかる。自分にしか書けない。

良い文章とはなにか。
という問いの答えは、この二つに集約できると思っている。

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私が塾講師をしていたときのことだ。勤めていた教室の国語科専攻は私だけだったので、夏休みになれば読書感想文・冬休みは作文と書初めの指導をするが多かった。

小さい教室ではあったが、小学生から高校生まで延べ200人以上の作文の添削指導を行ってきた。そして、子どもたちの文章を見ていると陥りやすいポイントがあることが分かった。

まず、難しく書こうとしていること。これは、難しい言葉を使うことにも同義に思えるが少しだけ違う。そもそも、子どもたちが普段使わない言葉を、辞書を引きながら自分のものにしようとしていることは、とても大切なことだ。言葉は使わなくては、獲得することが出来ないからだ。(これに関しては先日の記事「語彙力は感性を養う」をご参照ください)

しかし、あたかも賢そうに、難しい言葉を列挙することに意味はない。なぜなら、作文の目的は語彙を増やすことでも、文章力を高めることではないからだ。特に読書感想文なんかは、上手に書くことよりも「読み取った情報」や「心を動かされたストーリー」、「知らなかった感情」等を頭の中で巡らせ、その気づきを自分の言葉に変えて表現することが最も大切だからである。

小中学生には「幼稚園生でもわかるように」という言い方で指導をしていたが、一つの文章をだらだらの長く書くこともやめさせた。多くの場合は、書いている本人もわかなくなるほど、つじつまの合わない文章になってしまいがちだ。ただ正確に書いていたとしても、今度は読み手が混乱する原因にもなる。

また、皆優等生になりたがる傾向がある。というのは、マニュアル通りに並べた展開で、当たり障りのない内容や言葉を書いてくる。これには、一番厳しく注意をしてきたつもりだ。誰でもかけそうな文章に魅力はない。

だからこそ私は、「誰にでも分かる文章で、自分にしか書けない内容を」と伝えてきたのである。

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こうして偉そうに指導をしておきながら、いざ自分がnoteを始めてみると、まったく同じことをしていたことに気づいた。

何故か。

noteに投稿する以上は「意味を持たせなくてはならない」「他の投稿者のように上手に書かなくてはならない」という呪縛をかけていたからだ。豊かな才能があるわけでも、執筆経験が豊富にあるわけでもない。それなのに、自分に実力以上の期待をしてきた結果、実は書くことが怖くなってきていたのだ。たった一週間で。

しかし今、noteに対する意識が変わった。書くことに対しての恐怖心がなくなった。それに何故だか、不思議と創作意欲も湧いてきたのだ。指摘をしてくれた友人には感謝しかない。

ということで気持ちを新たに、名前も少しだけ変えて。
今日からnoteを始めます。

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