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12月11日(2004年) 欲しかったもの
自宅のある沿線の終電は、最寄り駅の一個手前までしか運行しない。
埼スタで、夜7時半キックオフの試合がPK戦までいった場合、決着がついたらすぐにスタジアムを出ないとひと駅歩くはめになる。
優勝が決まり、最後まで見届けてのひと駅なら短く感じるかもしれない。
けれど負けてしまったら、やり切れなさいっぱいの辛いひと駅になる。
第一戦を終えて、
「冷静に、したたかに」そうMDPに投稿したのは、相手がそう見
11月27日(1999年) 終わりと始まり
認めるのが嫌だったのか、
90分の終わりを告げる笛が聞こえても、涙は出なかった。
延長に入る前に降格が決定したことは、まわりに居た人が話しているのが耳に入ってきたので知ってはいたが、自分の目で降格の文字を見るまでは信じたくなかったのだ。
虚しいばかりの延長戦を終わらせたのは、やっぱり福田選手だった。
彼に与えられた時間の短さに、やり切れない思いや、悔しさが込み上げて、悲しみの感情より上回ってしま
11月23日(2004年) ラストゴール
駒場に史上最大の紙吹雪が舞った3日後、
レッズはアウェイで柏レイソルと対戦。
前節からメンバーを大幅に入れ替えて試合に臨んだ。
当時のレッズで一番好きな選手が室井選手だった私は、彼の久し振りの先発出場を嬉しく思いながらも、何とか結果を残して、レギュラー争いにくい込んで欲しいと願っていた。
そう思っていたのは私だけでは無かったのか、
試合前、選手たちがピッチに散らばる際、エメルソン選手が室井選手の
11月19日(2000年) スタジアムに満ちていたもの
11.19 バックスタンド西側。
ゴールを真横に見る位置にいた私は、土橋選手のシュートが間違いなくネットを揺らしたのを、しっかりと確認出来た。
選手の誰かが、スローモーションに見えたと試合後のインタビューで話していたが、
確かにボールの軌道をゆっくりと目で追っていた気がする。
そんなはずはないのだけれど。
終盤のレッズは苦しみながら、なんとか2位に留まってはいたが、くらいついてくる大分の結果を祈
11月10日(2001年) 聞いてみたいこと
この日は雨。
レッズポンチョを早々に着込んでキックオフを待っていると、隣の席の二十歳くらいの青年が、
「それは何処で買えるんですか?」と話しかけてきた。
グッズ売り場の場所を伝えると、一緒に来ていた同じ年頃の友人としばらく相談していたけれど、濡れても構わないという結論に至ったのか、席を離れずにそのまま座っていた。
赤いものは身に着けていなかった彼が、
「僕、西武台のサッカー部出身で…」と続けて話
10月30日(1999年) 負けた以上に悔しかったこと
初めて関東圏以外のアウェイに行ったのがこの試合。
大した力にはなれなくても、ほんの少しでも選手たちの後押しになればと思ったからだ。
下を向いてしまったら、ずるずると引き込まれそうだったから、
このあと、駒場で3試合やれること。
今日、市原も負けたこと。
ポジティブな要素を思い浮かべて、前を向くことにした。
勝負ごとだから、どんなに良いプレーをしても負けることはある。
サッカーは特に。
この試合
10月5日(2005年) 最初で最後かもしれない
ものすごい方向音痴なので、初めてのスタジアムに一人で行く時には、事前にしっかりと下調べをしておかないといけない。
ただ準備したものを見るまでもなく、駅から赤い人についていってスタジアムに到着している事が多い。
この日五井駅に降り立つと、まわりには赤い人も黄色い人も居なかった。
スタジアムに着くまで、どちらのサポーターらしき人とも出会わず、競技場まで○○kmの表示も無かったので、果たしてこの道で合
9月30日(2006年) 楽しい京都遠征
早朝の新幹線で初めての西京極へ。
乗車中に睡眠を取るつもりでいたのに、話に花が咲いてあっという間に京都に到着。
一泊の予定だったので、まずはホテルに荷物を置いて身軽になってスタジアムに急ぐ。
列整理も終わり、集合まで数時間の余裕が出来たので、この日は予定になかった京都観光をすることにした。
時間短縮のために乗り込んだタクシーの運転手さんの
「観光でいらしたんですか?」という、ごく当たり前の質問に
9月3日(1997年) 40分間のハーフタイム
「97年」「駒場」「雷雨」と聞いて、最初に閃いたのが名古屋戦だったのは、
自分がその場にいたか、いないかの差か。
横浜F戦が思い出したくない内容だったからなのか。
雨に濡れない場所でひとり参戦だったので、試合の再開を待ちながら、中断の間、ただただ空を見つめていた。
なので、今でも自分がどの場所で試合を見ていたのか良く覚えている。
試合内容や応援のありかたについて、不満の多かったこの頃。
この名
7月8日(1995年) 諦めたらそこで試合終了
勝利を確信出来るほどの点差をつけて、試合終了の笛を待つほうが、心臓にも順位にもいいはず。
それでもこんな試合を見てしまったら、もう好きにならずにはいられないと思う。
テレビ観戦の私ですら、何年経っても忘れられないのだから、現地にいたサポーターの心にはしっかりと焼き付いているに違いない。
1―1のスコアのまま、試合時間は残りわずか。
なんと89分に広島に逆転勝ち越しゴールを決められてしまう。
マリ
6月29日(1996年) 記憶を絞り出してみました
レギュレーションが度々変わるのは困ったものです。
価値が下がってしまいそうで、ヤマザキさんにも申し訳ない気持ちです。
さて、6月29日に行われた試合。
30年でこの一戦のみ。
家にMDPが無いから、参戦していないのは確か。
テレビで放送されたなら見ているはずだけれど、それすら定かじゃない。
全く思い出せないので、Jリーグのデータサイトでチェックすることに。
得点者は、福田正博、中山雅史、スキラ
6月28日(1995年) 新星輝く
残念ながらチケットが取れずにテレビ観戦。
それでも、録画して何度も見返すほど大好きな試合なので思い入れがある。
この年の大宮サッカー場といえば、「福永泰」抜きには語れない。
55分にマリノスに先制された数分後、
負傷の岡野選手に代わって福永選手がピッチに立つ。
この展開でルーキーに託して大丈夫なのか?という不安を吹き飛ばすように、ここから彼の小気味よいプレーが試合の流れを変えていく。
交代から
6月15日(2003年) 福田正博引退試合
懐かしいチャントを口ずさみ、
福田選手のチャンスをファウルで止めるゼリッチ選手にツッコミを入れ、
歴代選抜メンバーの技に唸る。
ゴールを期待しながら「GET GOAL FUKUDA」と叫び、きっちりと決めた福田選手をスタジアム中が称える。
最高に楽しく、素晴らしい引退試合だった。
時間が進むにつれ、段々と寂しさが増していく。
ユニフォーム姿を見ていたら、引退会見での言葉を思い出して、つい目が潤む
6月12日(1999年) 監督交代
99年の戦いを振り返ると、「あの時、こうしておけば」と思う場面が度々出てくる。
ほんの少し違う行動をとっていたら、結果は変わっていたかもしれない。
19日に行われた第2戦で選手たちが、「原さんのために」という気持ちで戦っていたことは、コメントなどからも伝わってきた。
私自身も「ここから、また」という気持ちで、この試合を見ていた。
約1ヵ月の中断前に決着をつけたかったのだろうが、監督交代のタイミ
5月28日(1997年) 最後まで諦めてはいけない
福田選手、JリーグのVゴール得点ランキング1位だったと思います。
確か「9」ゴール。
すぐに思い浮かぶものも多いですね。
96年の清水戦はもちろん、95年のセレッソ戦、
そして99年も。
この試合はテレビ観戦でしたが、福田選手のVゴールもさることながら、ギドの弾丸シュートも物凄く印象に残っています。
ゲルマン魂とは、こういう事なのかと。
Vゴールを決めた後、そのまま看板を飛び越えて、サポーター
5月27日(2000年) 27日
11.27から、ちょうど半年。
この試合、
「福田選手PK蹴らないのか…、あ、阿部ちゃんのハットトリック達成のためか」と思いながら駒場の定位置から見守っていたことしか覚えていない。
チームは自分たちの戦い方が定まらない状態で、試合中の野次やブーイングに、サポーターの意見も分かれるような、色々と模索中の時期だったと思う。
勝っていても、内容が悪ければ不満が口からもれる。
今思えば、何とも贅沢な…。