またも降ってきました!備忘録しときます。
1.これまでの「実在」の考え方
これにはいろいろご意見があると思いますが、ここでは便宜的にアリストテレスの形而上学を引用します。
このように、アリストテレスの形而上学における「実質」の概念は、西洋哲学における存在論やものに関する本質議論の基礎を形成しています。
このような歴史的な観点から、この「実質」を「実在」と定義します。
2.西洋哲学の実在探求の断念
カントは、「目の前に確かに実在している様に思えるモノ」について以下のように考えました。
「目の前にバナナがある」という現象はあくまで人間の頭の中のビジョンであり、その実在となるバナナそのものは認識できないとしました。その後、西洋哲学は「もの自体の世界」を探求する事を断念し、「認識論」に移行していきました。
※ただし、カントはあくまで「もの自体の世界は実在する」としています。
3.仏教の空の定義
仏教の空についてAIはこういいます
ここで、アリストテレの形而上学における「実質」のような概念は、仏教においては存在しないと否定しています。
4.物自体の世界と空の違い
実はこのあと、AIはこうも言いました。
何か違和感を感じませんか?なのでこう質問しました。
「そうだろうか?カントの物自体の世界とは、人間の概念の影響を受けない、物事が独立していない世界ではないのか?
ここまでの話を整理すると、
①カントの「もの自体の世界」は何らかの形で実在する。ただしそれがバナナの形をした個体を持っているとは限らない。しかし、アリストテレスの実質の考えを踏襲している以上、何らかの素材(素粒子的なもの)は必然的に想定される。
②仏教の空は「もの自体の世界」という実在(アリストテレスの実質)を否定している。あくまで、相互依存関係である縁起と空性から、「目の前のバナナ」という現象が立ち現れるとしている。
5.仏教の論理的説明の断念
この時、仏教の空には深刻な問題が浮かび上がります。
「目の前のバナナ」の根幹は相互依存関係や因果関係である、という論法である以上論理破綻が起きてしまいます。
相互依存関係や因果関係は論理的な構造を示す概念であるため、それ自体では何も生まない事になります。
モノに限らずとも、AやBというような何らかの対象が無ければ、「目の前のバナナ」という現象が生まれるプロセスを説明する事は困難です。
AIはこのような見解を示しました。
このAIの見解が適切ならば、仏教は理解に繋がる論理的な考察を断念した事になります。
6.量子力学の最前線
ご承知の様に、量子力学はカントの「もの自体の世界」、つまり自然科学の探求を目的に発展した最先端の学問です。
しかし、物質の実在として想定されていた「素粒子」は、実在しているとは言えない性質である事が判明しています。
ごく簡単に言えば、ある時間軸上の現時点には、素粒子を確認する事はできないし、そもそも素粒子には幅も大きさもなく、誰も見た事がない架空の粒子だからです。
そうした現実の中で、「量子情報理論」という学問が発展しているそうです。
ごく簡単にいうと、
・この世界には一切実在が存在しない
・すべては情報からなっている
・量子力学は「存在論」ではなく「認識論」といえる
というそうです。
7.「実在」を追う手掛かりが無くなったのか!?
このように、科学・哲学・仏教では実在を追求する事を断念しています。
しかし、その手掛かりはもちろんあります!あるから書いてる訳です。
今回はそのヒントを書いて終えたいと思います。
本来あるはずのない、「目の前のバナナ」という幻はどこから生まれているのか?
という状況を論理的に考え抜く事に尽きます。新たな科学的事実はいりません。今ある知識だけで十分に説明が付きます。
論理的な矛盾を一切排除します。
いいですか?
目の前にバナナがあるのは確かな事です。
必ず論理的なプロセスによって浮かび上がって来ています。バナナを幻だというなら、そのプロセスの発端と言うか全体像こそが実在です。
いいね!がいっぱいついたら続編を書きたいと思っています。
ご精読ありがとうございました。