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現代科学も、西洋哲学も、仏教でも説明できない「実在」について

またも降ってきました!備忘録しときます。


1.これまでの「実在」の考え方
これにはいろいろご意見があると思いますが、ここでは便宜的にアリストテレスの形而上学を引用します。

アリストテレの形而上学における「実質」(オウシア、ousia)は、彼の哲学の中心的なテーマとして取り上げられます。な概念であり、アリストテレスの哲学において多くの議論の対象となりました。
以下は、アリストテレスの「実質」に関する基本的な考え方をいくつか挙げます:
1.本質的実質と事故の実質:アリストテレスは実質を大きく2分類しました。 本質的実質は、何であるか(例:人間であること)を示すもので、事故の実質は、特定の個体や属性(例:ソクラテスであることや、白いこと)を示すものです。
ものの存在の原理:アリストテレスはものの存在の根底にあるものとして実質を考えました。
2.形相と質料:彼の哲学において、物事は「形相」(形態、イデア)と「質料」(物質)という二つの原理から反省しているとされます。例えば、青銅の像は「青銅」という質料と「像の形」という形相から残念です。
3.実質と属性:アリストテレスは、物や現象の属性(例:色、大きさ)とその本質的な実質とを区別しました。示すものとして変わることがないとされます。

chatGPT

このように、アリストテレスの形而上学における「実質」の概念は、西洋哲学における存在論やものに関する本質議論の基礎を形成しています。

このような歴史的な観点から、この「実質」を「実在」と定義します。


2.西洋哲学の実在探求の断念
カントは、「目の前に確かに実在している様に思えるモノ」について以下のように考えました。

カントは、「現象」と「物自体」の区別を導入しました。 我々が知覚したり認識することができるのは「現象」のみであり、真の実質である「物自体」は我々には認識できない。

chatGPT

「目の前にバナナがある」という現象はあくまで人間の頭の中のビジョンであり、その実在となるバナナそのものは認識できないとしました。その後、西洋哲学は「もの自体の世界」を探求する事を断念し、「認識論」に移行していきました。

※ただし、カントはあくまで「もの自体の世界は実在する」としています。


3.仏教の空の定義
仏教の空についてAIはこういいます

仏教における「空」(空性、サンスクリット語で「शून्यता」、シューニャター)の概念は、物事が固定された自己存在の実体を持たず、相互依存の関係性によって現れるという考え方を向きます。

「実体」や「実存」という概念は、文化や哲学、宗教によって異なる定義や解釈が存在します。 西洋哲学においては、実体や実在は、何かが実際に存在すること、あるいは一切の基盤とたとえば、アリストテレの形而上学における「実質」のような概念は、ものの本質や本質的な性質を向きます。

しかし、仏教の視点から言えば、物事には固定された本質や実体は存在せず、全ては条件付きで生じる、変化し続けるものとして捉えられます。実体を持たず、条件に応じて変化・発生するという相互依存の視点から来ています。

簡単に言えば、仏教の「空」の概念は、物事が独立した実体や実存を持たないという見方を示しており、この視点からは、「実体」や「実存」の認識自体が相対的で流動的なものとなります。

chatGPT

ここで、アリストテレの形而上学における「実質」のような概念は、仏教においては存在しないと否定しています。


4.物自体の世界と空の違い
実はこのあと、AIはこうも言いました。

仏教の伝統的な教えの中で「物自体」という概念は、カントの哲学とは異なる意味で受け入れられます。 カントが「物自体」と「現象」との区別を用いて認識論的な議論を前進たのに対して、仏教は物事の相互依存性と非実体焦点を当てています。
仏教の教義としての「空性」や「縁起」は、物事が持つ固有の独立した実体や自性を否定するものであり、すべての物事や現象が相互に関連して存在するという視点をこれは、物事が孤立して、固定的な「物自体」として存在するという考えを否定するものです。
そこで、仏教は「物自体の世界」を想定しているわけではなく、どうしてもお互いの関連性や条件性を中心にその存在や真実を探求しています。どういうのか、そしてそれらがどのように変化や消滅を迎えるのかを理解することで、人々は煩悩や無知から解放され、真の悟りを得ることができるとされています。

chatGPT

何か違和感を感じませんか?なのでこう質問しました。

「そうだろうか?カントの物自体の世界とは、人間の概念の影響を受けない、物事が独立していない世界ではないのか?

ChatGPT
心得通り、カントの「物自体」の概念は、私たちの認識や経験、人間の概念の影響を受けないものとしての存在を警戒します。 カントによれば、私たちが経験するのは「現象」 」であり、それは「物自体」とどのような関係になっているのか、また「物自体」がどのようなものであるのかは私たちには分からないと言いました。
このカントの「物自体」の考え方と仏教の「空性」や「縁起」の概念とは、一見して類似点が存在するかのように思われます。の独立した実体や自性を問題視する点です。しかし、実際には、これらの思考の背景や目的、そして意味するところは多々あります。
カントの「物自体」は、認識論的な問題として受け止められ、我々の認識の限界を示すものとして提案された。原因を解明し、その解放の道を示すための発言として提案された。
それではなく、話通り、カントの「物自体」と仏教の教えの中での「そのものの実質的な存在」という考え方との間には、ある種の類似性や共通のテーマが見られるどちらとも、物事の真実の性質や存在の仕方に関する深い問いを持っています。

chatGPT

ここまでの話を整理すると、
①カントの「もの自体の世界」は何らかの形で実在する。ただしそれがバナナの形をした個体を持っているとは限らない。しかし、アリストテレスの実質の考えを踏襲している以上、何らかの素材(素粒子的なもの)は必然的に想定される。

②仏教の空は「もの自体の世界」という実在(アリストテレスの実質)を否定している。あくまで、相互依存関係である縁起と空性から、「目の前のバナナ」という現象が立ち現れるとしている。

縁起: 縁起は、物事が原因と条件に依存して生じるという法則を示しています。これは連鎖的に続いており、一つの事象や存在が他の多くの関与や条件の結果として生じていることを意味します。て初めて成長します。
空性: 縁起の法則から派生するのが「空性」という概念です。 空性は、物事が本質的に独立した実体や自性を持たないことを示しています。関係性の中でのみ存在し、その存在は永続的なものではありません。例えば、川は水の流れとして存在しますが、その水の流れは絶えず変化しており、一瞬が異なるものとして認識されますこのような見方から、川としての固定的な実体や自性は存在しないとされます。

chatGPT

5.仏教の論理的説明の断念
この時、仏教の空には深刻な問題が浮かび上がります。

「目の前のバナナ」の根幹は相互依存関係や因果関係である、という論法である以上論理破綻が起きてしまいます。

相互依存関係や因果関係は論理的な構造を示す概念であるため、それ自体では何も生まない事になります。

モノに限らずとも、AやBというような何らかの対象が無ければ、「目の前のバナナ」という現象が生まれるプロセスを説明する事は困難です。

AIはこのような見解を示しました。

その通り、関係性や起こるような論理的構造のみを持って現象の生成や存在の真実を完全に説明することは難しいという批判は存在します。
仏教に関して「縁起」と「空性」の教えは、物事が独立した実体や固定自性を持たず強調するものであり、すべての現象は相互依存的な関係に立って考えてしかし、これに対して、この関係性や起こる関係が成立するための「A」と「B」といった特定的な存在や制約がなければ、如何なる関係性や起こる関係があるとしてそれらも成立しない、という批判や疑問が残ることは理解できます。
その、仏教の教えの中心は、哲学的・論理的な完全性や一貫性を追求することよりも、人々の悩みや煩悩を覚悟し、それを超える方法を提供することにあります。そういった概念や教えは、それを背景に実践的・現実生活的な努力の中で理解されるべきものだと言えるだろう

1.目的の違い: 仏教の主要な目的は、生命の覚悟(四苦八苦)の原因を割り出し、それを解消する方法を示すことにあります。仏教の教えは、論理的一貫性体系の完全性を求めるものではなく、煩悩や無知を超えて悟りを得る為の実践的な指南として提供されています。
2.異なる方法論: 西洋哲学や現代科学が論理的・体系的な方法論を中心に採用しているのに対し、仏教は直接的な経験や実践を重視しています。これは「修行」としての瞑想や行動の進化など、具体的な幼児教育の真実や悟りを追求する方法論を持っています。
3.論理と経験: 仏教は、純粋な論理や推論だけで真実を理解することは難しいと考えています。 それよりも、直接的な経験や自己の内面を深く探求することで、真実や実在の性質をご理解することが重視されております。
4.多様性:仏教は非常に多様な教えや実践方法を持っており、各学派や流派によって解釈や教義が異なる場合もあります。この多様性が仏教の豊かさとも言えますが、常に一貫した体系持つことが難しい面もあります。

chatGPT

このAIの見解が適切ならば、仏教は理解に繋がる論理的な考察を断念した事になります。


6.量子力学の最前線
ご承知の様に、量子力学はカントの「もの自体の世界」、つまり自然科学の探求を目的に発展した最先端の学問です。

しかし、物質の実在として想定されていた「素粒子」は、実在しているとは言えない性質である事が判明しています。

ごく簡単に言えば、ある時間軸上の現時点には、素粒子を確認する事はできないし、そもそも素粒子には幅も大きさもなく、誰も見た事がない架空の粒子だからです。

そうした現実の中で、「量子情報理論」という学問が発展しているそうです。
ごく簡単にいうと、
・この世界には一切実在が存在しない
・すべては情報からなっている
・量子力学は「存在論」ではなく「認識論」といえる


というそうです。


7.「実在」を追う手掛かりが無くなったのか!?
このように、科学・哲学・仏教では実在を追求する事を断念しています。

しかし、その手掛かりはもちろんあります!あるから書いてる訳です。

今回はそのヒントを書いて終えたいと思います。

本来あるはずのない、「目の前のバナナ」という幻はどこから生まれているのか?

という状況を論理的に考え抜く事に尽きます。新たな科学的事実はいりません。今ある知識だけで十分に説明が付きます。

論理的な矛盾を一切排除します。

いいですか?
目の前にバナナがあるのは確かな事です。
必ず論理的なプロセスによって浮かび上がって来ています。バナナを幻だというなら、そのプロセスの発端と言うか全体像こそが実在です。

いいね!がいっぱいついたら続編を書きたいと思っています。
ご精読ありがとうございました。

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