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1996年からの私

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週刊プロレス7代目編集長・佐久間一彦が、三沢光晴、小橋建太、髙山善廣らプロレスラーに学んだ日々の記録。
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#雑誌

1996年からの私〜第3回(97年)800人に一人の逸材!?

喫茶店での面接。ありのままの自分を評価してもらう97年3月、福島での合宿を終えた私は「週刊プロレス」濱部良典編集長との面接のため、初めてベースボール・マガジン社を訪問。どこか社内の個室での面接になるのかと思いきや、爽やかに登場した濱部さんの第一声は「お昼食べた?」でした。 13時のアポだったため、食べていないことを告げると、プレヤデスという地下にある喫茶店に案内されました。濱部さんは常連らしく、慣れた様子でカルボナーラを注文。面接できている私はここで何を頼むのが正解なのか?

1996年からの私〜第11回(03年)チャレンジしなければ失敗しない? やらないことが一番の失敗だ

湯水のように湧き出る企画案インターネットが発展してきた2000年以降、雑誌の売り上げは右肩下がり。週プロも苦戦が続くようになっていました。そんななか2003年になってすぐ、佐藤正行編集長から大役を任されます。「佐久間に任せるから面白い企画を頼む」と中カラーの特集化にGOが出ました。第7回で書いたように、中カラーの特集化を最初に提案したのは、2000年のことでした。このときはまったくノーチャンスでしたが、その後、全日本プロレスのチャンピオン・カーニバル特集、夏のプロレス特集、闘

1996年からの私〜第19回(07年)週プロ編集長就任②表紙を巡るエトセトラ

雑誌を経営する考え方正確な金額は書きませんが、週プロは一冊あたり○百万円の経費を使うことができました。国内外の出張費、ライターの原稿料、カメラマンの撮影料(昔はここにフィルム代や現像代も入っていました)、そして総務部や経理部などの給料に反映される何とか費(名前は忘れました)などが含まれます。 実績会議(第17回参照)では、「ライバル誌もなくなったのだから地方取材を減らして経費を下げてもいいのではないか」という声もありましたが、「そうですね。考えます」と言いつつ無視していまし

1996年からの私〜第20回(08年)売上維持のデータ分析

自分なりの根拠を持つためのデータ収集「敗戦処理」「貧乏くじ」と言われながらも、編集長に就任した2007年の週刊プロレスは売上好調で、年度末にはBBMで社長賞として金一封をいただきました。私が週プロに配属されてから常に右肩下がりだったため、編集部として賞をもらうのは初めてのこと。プロレス不況で苦しいなか頑張ってくれたスタッフを労うため、みんなで焼肉屋に行き、賞金はあっという間に使いきってしまいました。 売上好調とはいえ、プロレス人気が回復したわけではなく、まだまだ下げ止まりは

1996年からの私〜第21回(09年)三沢さんとの最後の酒席

NOAHの地上波中継打ち切り前年のリーマンショックを機に売上のアベレージが一気に数千部下がり、回復傾向が見られないまま年が明けました。この頃は寝ているときも次の号の表紙はどうしよう…と頭を悩ませていて、常に頭の中は起きているような状態。安眠したことはほとんどありませんでした。 そうしたなか、3月いっぱいでNOAHの地上波中継が打ち切りとなり、プロレスの世間的露出の減少に拍車がかかります。一方、日本テレビの地上波中継打ち切りに伴い、サムライTVでNOAHの試合中継が復活するこ

1996年からの私〜第22回(09年)2009年6月13日からの激動

2009年6月13日プロレスファンにとって「2009年6月13日」という日付は、記憶に刻まれている数字でしょう。三沢光晴選手が試合中に命を落とした、忘れたくても忘れられないあの日です。 前年の秋以降、急激な部数低下を受け、常に数字と向き合う日々が続いていました。この年は表紙になるような大きな試合がない週も多く、頭を悩ませる毎日。ただ、6月第2週は表紙候補のネタがありました。全日本6・10後楽園大会で、船木誠勝選手のプロレス復帰が決定。武藤敬司選手とのツーショットは表紙候補の

1996年からの私〜第23回(09年)人の不幸はビジネスチャンスなのか?

筋が通らないことはしない三沢光晴さんの訃報を伝えた本誌は、発売と同時に売り切れ店が続出し、週刊誌としては異例の増刷。さらにその後に発行した追悼号も瞬く間に売り切れ、こちらも増刷することになりました。 本来、自分たちがつくったものを多くの人の手にとってもらえるのは嬉しいことです。しかし、このときはやるせない思いでした。第21回で書いたように、この3カ月前、三沢さんと最後に飲んだときに、私は売り上げが落ちて苦しいと愚痴をこぼしてしまいました。それが三沢さんの訃報によって雑誌が売

1996年からの私〜第24回(09年)暗黒の編集長時代に週プロ1500号

感謝をこめた1500号記念イベント前回までに書いてきたように、2009月6月13日に三沢光晴選手がリング上の事故で命を落としました。その後、私は週刊プロレスの編集長として、いくつもの難しい決断を迫られ、その都度「これで良かったのか?」と思い悩んでいくことになります。今ならわかることも未熟だったこの頃の私には、わからないことがたくさんありました。何が良くて何が良くないのかわからず、人生の迷子状態に。 9月27日と10月3日、東京、大阪で三沢さんの追悼大会が決まると、BBMでは

1996年からの私〜第25回(10年)さらば週プロ。そして新天地へ

任期満了を前に続投要請BBMは毎年、社員に向けた職場環境に関するアンケートをおこなっていました。それは自己評価であると同時に自分の在籍する部署に対する評価。その中に「現在の部署での仕事について」という項目があり、①継続を希望する②異動してもいい③異動を希望する…という回答欄がありました。実は私は週プロ在籍が3年を過ぎた2003年から、毎年③の異動を希望するに印をつけていました(編集長になってからアンケートの内容が変わったのでこの項目がなし)。 別にプロレスの取材に飽きたとか

1996年からの私〜第27回(12年)尊敬すべきノンフィクションライターとの出会いと別れ

罵倒、裏切り、人間不信野球ステップアップシリーズの成功を経て、ようやく新たなスタートを切ることができた私のもとに、野球関連の仕事依頼がやってきました。白夜書房の『野球小僧』という、アマチュア野球、ドラフト情報を中心とした、かなりコアな野球ファン向けの雑誌を丸ごと作ってほしいという依頼です。 「編集部のスタッフが全員辞めてしまった。定期購読が数多くあり、雑誌を作らないわけにはいかない。会社を助けてほしい」。大まかにはこうした内容でした。実際に雑誌を見せてもらうと、とにかく情報

1996年からの私〜第28回(13年)妥協なきノンフィクションライターに学ぶ

プロの仕事を見て自分の甘さを痛感『野球ステップアップ』シリーズ、『野球小僧』の制作を経て、人脈の拡大とスキルアップに成功し、新たな10冊シリーズの書籍の制作依頼を受けます。仕事が充実していく一方で、『野球小僧』が「これから」というときに続けられなくなったモヤモヤは晴れずにいました。 そんなとき、バイタリティに溢れる女こと、岡田真理さんから、「新しい野球雑誌つくっちゃいましょうよ」と提案を受けます。ゼロをイチに変えるのは膨大なエネルギーを必要とします。それでも私は大変なことほ