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1996年からの私〜第19回(07年)週プロ編集長就任②表紙を巡るエトセトラ

雑誌を経営する考え方

正確な金額は書きませんが、週プロは一冊あたり○百万円の経費を使うことができました。国内外の出張費、ライターの原稿料、カメラマンの撮影料(昔はここにフィルム代や現像代も入っていました)、そして総務部や経理部などの給料に反映される何とか費(名前は忘れました)などが含まれます。

実績会議(第17回参照)では、「ライバル誌もなくなったのだから地方取材を減らして経費を下げてもいいのではないか」という声もありましたが、「そうですね。考えます」と言いつつ無視していました。

経費を下げることで利益を出しても、それは一時的なものです。逆に経費をケチってコンテンツパワーが落ちれば、必ず部数も落ちていきます。専門誌が一誌になったため試合リポート重視に誌面の方針をシフトしたのに、地方大会の取材を削ったのでは本末転倒。売りになるビッグマッチがあるときには人員を割き、海外取材にも積極的に記者を派遣しました。

毎週ビッグマッチがあるわけではありません。月に一度は試合が少ない週もあります。
前任の長久保編集長からは「経費は一冊ごとで考える必要はない。1カ月で帳尻が合うようにすればいい。会社を経営するのと同じ感覚で雑誌を経営するんだ」とアドバイスをいただいており、1カ月トータルで経費の額を調整し、人もお金も使うべきときは使うという考え方でした。

現在は経費の締めつけがきついのか後楽園ホールの試合のカメラマンは大抵一人ですが、私の時代は二人、もしくは望遠を含めて三人派遣していました。もちろん、プロのカメラマンは一人で全部撮影できます。しかし、さまざまな角度から撮った写真があったほうが、より良い誌面ができる。そのために人もお金も割くのです。貧乏臭い発想では貧乏臭い誌面になりかねません。

専門誌が一誌しかないため、読者は試合リポート、試合写真を待っている。表紙も意図的に試合中の写真を多くしました。この読みは当たり、試合を全面に押し出す戦略はうまくハマって編集長就任後の売上げは非常に好調でした。

2007年の週プロで表紙にして一番売れる数字を持っていた団体はDRAGON GATEでした。相対評価がなくなったことをマイナスではなく、プラスに変えてくれるのがDGだったのです。

プロレス専門誌を求めている人は、昔からの週プロ読者でもゴング読者だった人でも、習慣として手にとってくれます。しかし、DGのファンは違います。DGのビッグマッチがあり、それが表紙の時は購入する。そんなファンが多いことは、5年間担当をしていたのでわかっていました。だからDGを表紙にした号の売上げが伸びるのも想定内でした。

じゃあ毎回すればいいじゃないか!と考えるのは短絡的です。それをしたら、今度は普通に定期的に購入している読者がソッポを向いてしまいます。そうならない絶妙なバランス感覚が必要なのです。

表紙を巡る駆け引き

DGはプロレス不況関係なしの人気を誇っていましたが、この頃、何かと話題を振りまいていたのがハッスルです。ハッスルはお金の使い方も豪快で、ビッグイベントの前には3週、4週と連続で週プロに広告を入れていました。広告が入るのはありがたいのですが、困ったこともありました。広告の担当者が広告出稿の見返りとして勝手に「表紙にする」と約束してきてしまったのです。

ターザン山本元編集長の著書には、お金をもらって表紙を売っていたというようなことが書かれていたと聞きます。しかし、締め切りの最後まで何が起こるかわからない以上、事前に約束することはできません。100パーセントの確約は不可能なのです。

ハッスルがたくさん広告を入れてくれていたことは事実で(後に未払いがありましたが)、それには応えたいという思いもあり、選手インタビューなどの企画物は必ず入れるようにしていました。ただ、読者の反応を見ていると、会場の盛り上がってる感とは対照的に拒否の声が多数でした。ハッスル推しは読者を手放すリスクが大きく、広告局で勝手な約束をされても表紙にするつもりはありませんでした。

それでも広告担当からは「これだけ広告をとってきたんだから俺の顔も立ててくれ」と再三、表紙への交渉を受けます。そんなとき、これならいけるかもというニュースが入り(後述)、年間最大のビッグマッチ「ハッスルマニア」の前のタイミングでハッスル表紙に踏み切ります。この時のこちらの条件は、何か事件が起きた場合は変わる可能性があることを了承してもらうこと。そしてもう一つは、高田総統というキャラクターではなく、高田延彦にインタビューさせてほしいということでした。

高田さんは「泣き虫」という本(著・金子達仁)を出版後、週プロとは完全に疎遠となっていました。あの本を出した高田延彦がハッスルをどう考え、プロレス界をどう考えているのか、私が直接聞く。それならという条件でした。キャラクターに則ったインタビューが読者に不評でも、高田さんなら勝負できるのでは?と考えていたのです。しかもこのときは、年末の地上波放送決定という追い風もハッスルには吹いていました。この最高のタイミングで勝負をかけて、ハッスルが是か非か読者に問おうと考えました。

この高田延彦インタビューは個人的には良い内容だったと思っています。表紙には「カミングアウトしよう!」という、他団体からはクレームがくるような刺激のあるタイトルをつけ(実際、抗議を受けました)、出せるべきものは出して、読者に判断を委ねます。こちらとしてはできうることはやったつもりでしたが、この表紙は売れないだろうなという予感はありました。団体や一部選手から「ハッスルと一緒にするな」というクレームがあったように、読者の反感を買い、売り上げ減につながる危険もありました。

果たして、この号はまったく売れませんでした。この年の週プロではワーストの売り上げ。追い風が吹いていても、盛り上がっているように見えても、週プロ読者のハッスルへの評価はNOが大多数でした。ハッスルでは雑誌が売れないとわかれば、広告担当も無理なことは言ってきません。それをハッキリとしたカタチで証明することができました。

売り上げ減は即休刊の恐れがありながら、私がここでハッスルを表紙に起用したのには理由がありました。読者に反感を買うとしたら、このタイミングしかないと考えていたのです。なぜなら、この2週間後に小橋建太選手の腎臓がんからの奇跡の復帰戦が決まっていたからです。ハッスル推しで読者を手放すことがあっても、小橋選手の復帰戦で必ず取り戻すことができる。だから、やるならここしかない。小橋選手の復帰が発表された段階で、ハッスル表紙のタイミングを見計らっていました。

ハッスル表紙号と、その影響で次の号は売り上げに苦戦しましたが、小橋選手の復帰号は予想通りバカ売れ。手放しかけた読者を無事に取り戻すことができました。この頃は「新しい読者を開拓しろ」とよく言われていましたが、見えない読者よりも、今ここにいる、しっかり見えている読者を大事にしたい。雑誌を守っていくために読者との共存が、編集長一年目の私の考えでした。

こうして表紙を巡る闘いを乗り越えた私でしたが、翌2008年はリーマンショックというさらに強大な敵と闘うことになるのでした。

つづく  

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