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1996年からの私〜第17回(06年)プロレス専門誌(紙)の危機

週プロの危機と小橋建太の腎臓がん

BBMでは各雑誌ごとに月に一度、社長をはじめ、編集局次長、販売、広告、宣伝、資材など各部長が出席する実績会議というものがありました。これは簡単に言うと売上げの推移を見ながらの反省会です。週プロからは編集長のみが出席していましたが、2006年から本多編集長に「一緒に出てほしい」と同席を求められ、私も編集部側として出席することになりました。

2000年以降、週プロ(というより雑誌全体)の売上げが右肩下がりで、この実績会議はハッキリ言えば吊るし上げの場みたいなものでした。初めて参加してみて、本多編集長が一緒に出てほしいという理由を理解しました。「広告が入らないのは雑誌が売れないからだ」。「雑誌が売れないから書棚を減らさざるを得ない」。「取材経費をもっと下げられないのか」。「新聞広告は宣伝費の無駄使いじゃないか」…。みんなが責任を押しつけあっているだけで、健全ではない無意味な会議であることはすぐにわかりました。

初めて出席したときは様子見だけで終わりましたが、翌月からは編集長を援護する弾を用意して臨むようにしました。責任を押しつけあっていても何も解決しないので、各部署に歩み寄りながら、それぞれが利益を上げていく方法を提案していき、どんよりした場の空気を変えることから始めたのです。

人と会話するときの基本は相手を受け入れることです。相手が殴ってきた(口撃してきた)とき、殴り返せば相手は引くに引けなくなってまた殴ってきます。あるいはこっちがガードを固めてしまったら、もはやラリーにはなりません。だからまずは受け入れる、受け止めることから始めるのです。

具体的に言うと、会話の最初に「でも」を使わないだけでもだいぶ変わります。人に意見を求めておいて「でも」と、否定から入る人は本当にたくさんいます。その人は何も決定できないし、何も実現できない人だと思ってください。たとえしょうもない意見だったとしても、否定はせず、「そうですね」と、受け止めた上で「では…」と、次の展開に持っていきます。

「雑誌が売れないから広告営業がきつい」と言われて「でも、こっちはやることやってるので、そこを何とかするのが営業の仕事でしょう」と言ったら責任のなすりつけ合いになります。そこで私がとった策は相手を肯定することです。
「そうですよね。大変ですよね。では、編集側が協力できることはないですか?」と、文句を言って終わりではなく、その先を考える会議に変えていくことを試みました。実績会議に出席している方々は全員10年以上先輩のお偉いさんたちだったので、一人ひとりを尊重した上で話を回すようにつとめていました。

そんなこんなで2006年も半年が過ぎようかという頃、ただでさえピンチの週プロにさらなるピンチが訪れます。小橋建太選手の腎臓がんが発覚し、戦線離脱を余儀なくされたのです。小橋選手は前年も対佐々木健介戦のベストバウトをはじめ、対力皇戦、アメリカ遠征、ヨーロッパ遠征などでも表紙を飾り、週プロの売上げにとって大きな存在でした。雑誌の売りになる看板レスラーを襲った病は、専門誌にも大きなダメージとなったと言ってもいいでしょう。

このときは個人的にも精神的に大きなダメージを受けました。時のGHCヘビー級王者は秋山準選手。王者としての意気込みを聞くインタビューにて、永遠のライバルである小橋選手との防衛戦に向けての言葉を引き出していました。

私はこのインタビューのコピーに「小橋建太は衰えた」と付けました。これはインタビュー中の秋山選手の発言から抜き出したものであり、実際には衰えたなんて思っていません。両者の対決の機運を高めるべく、あえて刺激的な言葉をタイトルに使ったのです。ところが、このインタビューが掲載された週プロの発売から数日後、小橋選手の腎臓がんが明らかになり、言葉を失いました。編集部には「週プロが変なことを書くからだ」とやり場のない怒りをぶつけてくる読者の方もいて、自分も気持ちの整理がつかない状態が続きました。そんなつもりではないのに…と心底落ち込んだことを鮮明に覚えています。

週刊ファイト休刊、野球畑の編集長誕生

この頃のプロレス界はまさにどん底期と言えるかもしれません。新日本は低迷からの回復途上で、2年連続ドームを満員にしていたNOAHは小橋選手の病気もあり人気が低下。全日本もいろいろな策を講じていたものの集客に苦戦。女子は全女、GAEAが活動停止となり、PRIDEなどの格闘技人気も低下中。プロレス全体の人気が下降の一途であり、大会の人気で売上げを伸ばすのが困難な状態でした。

そうしたマット界の状況と出版不況が重なり、週刊ファイトが9月末で休刊。週刊ゴングも休刊の危機という噂が流れ、週プロも他人事ではない状態。この危機的状況打破のため、週プロは編集長交代に踏み切ります。新たに編集部にやってきた長久保由治さん(現・全日本野球協会専務理事)は、元々野球畑の人でプロレスとは無縁の人。これは週プロにとって大事件でした。

本多さんが降板して長久保さんが編集長になるという話は、編集次長の私には事前に耳に入ってきていました。長久保さんとは話をしたことがなく、どんな人なのかまったく知らなかったため、社内でリサーチ。話をトータルすると、「怖い人」となりました。そして、「佐久間とは確実に衝突する」というのが、双方を知る人に共通した意見でした。長久保さんはかつてBBMが経営不振のとき、豪腕で立て直した立役者であり、一方で強引なやり方で敵も多いという評価。私の性格的に確実に衝突すると言われました。

私は週プロを守らないといけない立場なので、長久保編集長となって最初の編集会議の後、衝突覚悟で1対1で話す時間を作ってもらいました。その場でプロレス界の現状を伝え、編集部はどんなことをしてきて、どんなことをしようとしているのかを話し、誌面はプロレス界を知っている自分たちに任せてほしいとお願いしました。編集長に編集は俺たちに任せろというのは失礼な話です。それは百も承知でしたが、プロレスとは無縁だった長久保さんに丸投げすることはできないと、自分の思いを全部伝えました。

「テメエらがダメだから俺が来たんだろ!」と怒鳴られることも覚悟していましたが、みんなが怖いと恐れていた長久保さんの反応は予想外のものでした。

「安心したよ。週プロが売れてないっていうから編集部の活気がないのかと思ったんだけど、みんなやる気があるし、プロレス大好きなんだな。編集会議でもそう感じたし、佐久間がこれだけ考えてるなら安心した。会社のことは俺がやるから誌面は全部任せるよ」

拍子抜け。編集長と決裂した場合は編集部から飛ばされることまで考えていたのに、長久保さんは全部オマエに任せると言ってくれました。その上で、会社から課せられた任務を遂行していったのです。

長久保さんは編集長就任後、バブル期のまま据え置きとなっていた原稿料や海外通信員の契約条件を見直し、完全デジタル化への移行のため、創刊時からのデザイナーや、PCを使う気のない一部のライターをリストラ。編集部のスリム化に着手しました。事実だけを書き連ねると、突然やってきて非情な人と思われることでしょう。しかし、本来これは私がやらなければいけなかったことです。

ライターもデザイナーもカメラマンも全員先輩で、みんなが編集部に来たばかりの小僧だった時代の私を知っています。そんな先輩方をリストラする仕事を私にやらせるのはあまりにも酷だということで、長久保さんが嫌われ役を代わってくれたのです。とはいえ、先輩方を守れなかったのは売上げを伸ばせなかった私の責任。リストラの対象になってしまった先輩方に報いるためにも、週プロだけはなんとしても守っていかなければいけないという思いを強くしました。

そして翌年、嫌な役目を終えた長久保さんに代わり、私が編集長に就任することになります。当時31歳。まだまだ自由に現場を飛び回りたい気持ちはありましたが、週プロを守るために自分がやるべきことは決まっていました。8年前、「800人に一人の逸材」として会社に迎え入れられた私に週プロの命運が託されることになったのです。

つづく

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