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1996年からの私〜第25回(10年)さらば週プロ。そして新天地へ

任期満了を前に続投要請

BBMは毎年、社員に向けた職場環境に関するアンケートをおこなっていました。それは自己評価であると同時に自分の在籍する部署に対する評価。その中に「現在の部署での仕事について」という項目があり、①継続を希望する②異動してもいい③異動を希望する…という回答欄がありました。実は私は週プロ在籍が3年を過ぎた2003年から、毎年③の異動を希望するに印をつけていました(編集長になってからアンケートの内容が変わったのでこの項目がなし)。

別にプロレスの取材に飽きたとか、週プロが嫌というわけではなく、自分のスキルアップのため、一つの場所にとどまるより、違うことを経験した方がいいと考えていたからです。具体的には、相撲、柔道の国技に入り込む取材をしたい、あるいは雑誌ではなく書籍をつくりたいというのが希望でした。しかし、異動希望を出し始めた翌年に編集次長となり、その3年後には編集長と立場が変わっていき、結局、私の異動希望は最後まで通ることはありませんでした。

2010年になって間もなく、私は池田社長から社長室への呼び出しを受けました。人事の話なら社長ではなく、まずは部長から話があるはずです。なんだろう?と思いつつ入室すると、編集長としての3年間に対する評価を直接伝えられました。

「去年はいろいろあって大変だったと思うけど、本当にご苦労さん。週刊誌がなかなか売れない時代でサッカーマガジンなんかは隔週化、月刊化も考えないといけない。次の編集長を誰にするかというのは雑誌にとって大きな問題だけど、その点、週プロは佐久間がいるから心配しないくていい。あと10年くらいは頑張ってくれよ(笑)」

当初予定されていた編集長の任期は3年。任期満了を迎える3月を前に、社長からの続投要請でした。

しんどい思いをしながらやってきたことをトップが評価してくれるのは嬉しいことです。ただ、前回も書いたように週刊誌の最前線で闘い続けるには、私は疲れすぎていました。表向きには元気に見えるので「悲壮感がなくていい」なんて言われていましたが、実際には慢性的な頭痛がおさまらず、安眠もできず。前年の三沢さんの事故以降、一連の私の振る舞いに対して社内外からの風当たりも強く、一度環境をリセットしたいと思っていました。

たらればになってしまいますが、もしもここで任期満了となっていたら…。違う部署でイチから出直しならば、会社に残る道もあったかもしれません。私が編集長を降りたいと思っていても、会社の期待はあくまでも週プロの編集長として働くこと。異動希望がずっと通らなかったように、この先も走り続けるしかないのです。

ボロボロになってから「会社のために頑張ってきたのに…」なんて言っても、誰も救ってはくれません。そういう先人たちも見てきたので、現状維持では自分に明るい未来はないことはわかっていました。まだ30代半ばだったこともあり、飛び出すなら今のタイミングだと考え、任期満了となった4月に入ってすぐ、部長に退職願を提出しました。

先のアテがなかったため、5月いっぱいで編集長を降り、6月は有給消化をしながら転職活動の時間にしようと考えていました。また、辞めるのは三沢さんの一周忌が終わった区切りでという気持ちもありました。もう一つ、セコいことを言うと、転職が決まらなかったときのために、家族の生活もあるのでボーナスをもらってから辞めたほうがいいだろうという打算もありました。

出版不況のなか売上げノルマをクリアしている週刊誌の編集長が退社すると言って、簡単に会社に受け入れられるわけがありません。当時の部長は親身になって私のことを考えてくれていて、退職願提出後、何度も話し合いをして強く慰留してもらいました。その後は常務とも面談し、「昇給表」という社員全員(社員番号で表示)の給料の上がり方を示す資料を見せられ、「オマエのことはこれだけ評価してるんだ」と数字とともに伝えてくれました。

こうしたやりとりは1カ月近く続き、私の退職が認められたのはゴールデンウィークが明けてからでした。もう会社への恩返しは十分できたと思っていたので、残留の選択はなかったのです。会社側が全面的に私の希望を飲んでくれて、5月末で編集長を降り、6月末で退社となりました。

格通モバイルクローズから転職へ

退社が決まれば次は転職です。学生時代からマスコミに就職したいと思い、その世界で10年以上働きましたが、その過程で疲れ果て、もういいかなと思っていました。ところが、この転職は意外な展開となるのでした。

前年10月から私は週プロの編集長に加え、モバイルコンテンツ部の編集長も兼務していました。モバイルコンテンツ部は、週プロモバイルと格通モバイルが属する部署です。格通本誌はすでに休刊となっており、モバイルだけが存続。しかし、その運営は外部委託となっていました。

その格通モバイルを5月(6月だったかな?)いっぱいでクローズすることになり、編集長として運営会社にそのことを伝えにいくことになりました。格通モバイルを運営していたのは有限会社ライトハウス。現在、私が所属する会社です。

ライトハウスの本島燈家社長は、私が格通に在籍したときの一番歳が近い先輩。お世話になった人であり、格通モバイルをクローズするという話をするのは何とも気まずい思いでした。大きな利益は出ていないものの、格通モバイルは赤字というわけではなく、クローズする理由が「わざわざ外部委託してまでやるものではない」ということ。モバイルを畳むと完全に格通が消滅することになり、自分の出発点がなくなるのも、気持ち的には嫌なものでした。

しかし自分はすでに退職願を出しており、会社の方針にとやかく言える立場ではありません。本島社長に格通モバイルのクローズを伝えると、「お金が回ってるものをわざわざやめるのはもったいないから、外部委託が嫌なら自社でも続けたほうがいいのでは」と助言をいただき、「早く佐久間くんみたいな若くてエネルギーがある人が役員になればベースボールももっと良くなるのにね」と言われました。

ここで私はすでに退職願を出していて、6月末で退社することを報告。残念ながら役員になることはないと伝えました。次は何をやるの?と聞かれたので、「この業界に疲れたので何か違うことをできたらと考えています」と返しました。私の言葉を聞いた本島社長からは予想外の言葉が返ってきました。

「これだけ才能があって年齢的にもこれからの人材を失うのは業界として大きな損害だよね。せっかくの能力や人脈は絶対に生かしたほうがいい。ウチはプロレスだけとか、雑誌だけとかではなくていろんなものが作れるし、満足のいく条件が出せるかわからないけど、次が決まってないならウチで働かない? 会社ができて8年。コツコツやってるけど、現状維持がやっとなんだよね。君が来てくれたら間違いなく飛躍できると思うんだ」

環境を変えて制作の仕事を続けていけるなら、とてもありがたい話です。ただ、いろいろと疲れすぎていたこともあって即答はできず、後日、時間を作って話すこととなりました。

退職願が正式に受理されたのち、再び本島社長と面談。ライトハウスは若い会社で、一度は金銭面での折り合いがつかず、転職は断念することになりました。しかし後日、当時の会社規模を考えても、まだ何もしていない人間に対しても、破格の条件を提示してもらい、私はライトハウスへ転職することを決めました。

「正直に言うとこれから何ができるかわからない段階でこれだけ投資するのは会社としてはリスクがあるけど、それでも佐久間くんをこの業界から失うのは損害が大きすぎると思うから、ウチでぜひ一緒に働いてほしい」

条件面だけでなく、発展途上の会社を発展させるために自分を強く必要としてくれている。その思いに応えたいと思い、新たな一歩を踏み出すことにしました。

こうしては私は三沢さんの一周忌を終えた6月末に、バイト時代から合わせて12年在籍したベースボール・マガジン社に別れを告げ、7月からライトハウスで新しい人生を歩み始めることになります。

大きな期待を背負っての新たなスタートは決して楽な道のりではありませんでしたが、世界が変わったことで、よりたくさんの素敵な人と出会うことになるのでした。

つづく

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