マガジンのカバー画像

1996年からの私

32
週刊プロレス7代目編集長・佐久間一彦が、三沢光晴、小橋建太、髙山善廣らプロレスラーに学んだ日々の記録。
運営しているクリエイター

#スポーツビジネス

1996年からの私〜第1回(96年)できない理由は探さない

自分の記憶を記録にしておこう気づけば週刊プロレスの編集長を辞任し、ベースボール・マガジン社(BBM)を退社してから10年。一度は違う世界に行くことも考えたけど、結局、人が好きで、取材、制作の日々を続けています。ありがたいことに近年はテレビやイベントMCなど、タレントとしての仕事も増え、忙しくも楽しい毎日。基本的には人の話を聞く側のため、自分の話をする機会はありません。 しかし昨年はラジオ、パンフレット、週プロ関連書籍で立て続けに自分のことを話す機会があり、思った以上の反響を

1996年からの私~第2回(97年)流し台工場の怖いおじさん

流し台工場でこっぴどく叱られる大学が春休みになり、部活の合宿で福島にあるクリナップレスリング部へ。クリナップは流し台やキッチンを作っている会社で、このときは消費税増税(3%から5%へ)前ということで、注文が殺到。人手不足を補うため、9時〜17時が工場でバイト、夕方18時過ぎから練習という合宿でした(写真は大学4年時)。 2週間程度の学生バイトなので、大した仕事ではないだろうとタカを括っていたら大変な目に遭いました。実際、ほとんどの部員はダンボールへの詰め込みや部品の接着など

1996年からの私〜第3回(97年)800人に一人の逸材!?

喫茶店での面接。ありのままの自分を評価してもらう97年3月、福島での合宿を終えた私は「週刊プロレス」濱部良典編集長との面接のため、初めてベースボール・マガジン社を訪問。どこか社内の個室での面接になるのかと思いきや、爽やかに登場した濱部さんの第一声は「お昼食べた?」でした。 13時のアポだったため、食べていないことを告げると、プレヤデスという地下にある喫茶店に案内されました。濱部さんは常連らしく、慣れた様子でカルボナーラを注文。面接できている私はここで何を頼むのが正解なのか?

1996年からの私〜第4回(98年)デビュー前から武者修行。そして格闘技通信へ

叩き上げではなく海外武者修行1997年11月の全日本大学選手権を最後にレスリングの世界を引退。4月の内定以来、BBMとはまったくコンタクトをとっていなかったため、内定はなかったことになっていないかと心配で、引退と同時にすぐに編集部に電話をしました。 濱部編集長とコンタクトをとると、今後についての話は年が明けてからとのこと。4月のときはすぐにでもアルバイトに来てほしいと言っていたのに雲行きが怪しい。私が授業と部活に打ち込んでいる間に、別の有望株が現れたのか…と少々不安になった

1996年からの私〜第5回(98年)格闘技通信の日常

仕事はやればやるほど増える打ち出の小槌「格闘技通信」編集部で働き始めた私がやっていた仕事は、以下のような内容です。 まずは写真整理。当時はデジカメではなく、フィルムだったため、撮影した写真を大会ごと、試合ごとにファイリングしていきます。また、誌面で使用した写真を1号ごとにまとめて、再利用するときにすぐにわかるようにしておくことも大事な仕事でした。そして新聞のスクラップもあの時代ならではの仕事。現在はインターネットで検索すればすぐにニュースがでてきますが、当時はそれができなか

1996年からの私〜第6回(99年)まさかの帰還命令…そして週プロへ

やる前から拒否していたら何もできない「格闘技通信」編集部で次々とチャンスをもらい、編集・記者の仕事にも日に日に慣れていきました。このときは大学にも週にひとコマだけ通っていて、99年に無事に卒業。1年越しでベースボール・マガジン社(BBM)に入社することになります。当時のBBMは入社から1年は嘱託社員で、その後正社員になるというシステムがあり、私も例に倣いまずは嘱託社員として入社しました。 入社の際、格通や週プロが属する第二編集部の部長でもあった週プロの濱部編集長から、「入社

1996年からの私〜第8回(01年)退社か? 残留か? 会社の奴隷にならない選択

タダ働き3年。もう1年続けるか高山選手への取材をきっかけにした意識改革、そしてNOAHの旗揚げにより、少しずつチャンスが増えていき、自信もついてきたなかで2001年を迎えました。 3月、前年と同じように会社からは当然のように嘱託社員継続の打診がきます。またしても人事部長が前年と替わっていたため、過去の話はリセットされています。当時のBBMの正社員と嘱託社員の大きな違いは退職金の有無と、休日出勤手当の有無。出張の際の手当も嘱託社員にはなかった気がします。週刊誌で働いていれば嫌

1996年からの私〜第20回(08年)売上維持のデータ分析

自分なりの根拠を持つためのデータ収集「敗戦処理」「貧乏くじ」と言われながらも、編集長に就任した2007年の週刊プロレスは売上好調で、年度末にはBBMで社長賞として金一封をいただきました。私が週プロに配属されてから常に右肩下がりだったため、編集部として賞をもらうのは初めてのこと。プロレス不況で苦しいなか頑張ってくれたスタッフを労うため、みんなで焼肉屋に行き、賞金はあっという間に使いきってしまいました。 売上好調とはいえ、プロレス人気が回復したわけではなく、まだまだ下げ止まりは