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ノートの魔力


私は昔から、「ものを書く」ことに対して熱しやすく冷めやすい。

文房具屋に行き、表紙に一目惚れしてノートを買った回数は数知れず。家に帰りながら、「旅行に行ったときに感想を書くためのノートにしよう」「好きな歌詞を書こう」「映画の感想を」「本の記録を」などと理由をつけて買った自分を納得させる。でも、結局三、四回書いてからそのまま永遠に更新されないでいるか、その書き込まれた最初の数ページを切り取り、新しい真っ新なノートとして「何か重要な書くことができてから使おう」と待機中になっているものが大量にある。それでも、心ときめく一冊を見つけてしまうと手に入れずにはいられなくなる。だから、ノートには魔力があると思う。

私は、そんな熱しやすく冷めやすい自分が嫌で、せっかく買ったのに最初の数ページ以降、書き込まれることなく数か月経ってしまったノートを見つめながら罪悪感のようのものを感じ、落ち込むことがよくあった。そしてその都度、むやみに増やすのはやめよう、と心に誓うのだ。それなのに今年の一月、また新たなノートを迎え入れてしまった。ほぼ日手帳だ。

ほぼ日手帳にはいくつか種類があるのだが、私はほぼ日手帳のカズンというタイプの、半年分の書き込みができるものを買った。大好きなミナ・ペルホネンのカバーに惹かれたのだ。これを買ったときの自分の言い訳は、手帳前半にあるタイムスケジュールを書き込める場所に息子の授乳時間・授乳量・排泄回数を記すために使えるから、ということにした。あとは毎日、息子の成長記録をその日用のページに載せよう、と思った。でも、結局授乳記録も成長記録も、日々の家事と育児に追われるうちに、開始数か月で途絶えてしまった。

それでも、今回はいつもと違って罪悪感は無い。というのも、ほぼ日手帳自体が「好きなように使って良い。書かない日もあっても良い」と謳ってくれているから。さらには、私が産後、実家にいたときに一田憲子さんの『大人になってやめたこと』という本を読んだことも大きく影響している。

この本の中では、「こうでなければならない」「こうしなければならない」などと、生きているうちに自分で自分に制約や決まりごとを作ってしまい、結果として自分が不自由を感じていることに著者が気づき、そういった自分に課したルールを「やめる」ことで肩の荷が降りて生きやすくなった、といったことをエッセイ形式で紹介している。読んでいて私はこれだ!と思った。私は自分自身に「ノートは目的を決めて買わなければならない」「一度書き始めたら最後まで続けなければならない」という暗黙のルールを知らず知らずに課してしまっていて、それが達成されなかったときに毎回勝手に落ち込んでしまっていたのだということに気づいた。

私は自分で勝手に作ったこの暗黙のルールを「やめる」ことにした。そうしたら、とても快適になった。私だけの、好きなように使っても良いノートなので、ある時はゲームの謎解きのヒントをメモするために書き込んだり、ある時は息子の成長記録を書いたり、気分が良いときは色塗りをして絵を描いたり。時には数日何も書かない日だってある。最近は、毎日のTODOリストを書き込んで使っている。「このノートはこのために使わなければならない」という束縛が無くなったら、本当に気楽になった。そして、この考え方はノートのみならず、noteにも適用されるな、と思った。

noteを始めたときは、できれば毎週更新したいな、と思っていたが、この「ルールをやめる」ことを身に着けていたので、更新できない週があってもいいや、と思うようになった。もともと、noteを始めたいと思ったきっかけは、私が数年前に会社に向かうときに目にした、雪の中に埋もれてしまっていた小さな青い鳥についていつか書きたいな、と思ったからだったことを思い出した。私は、自分の日常に起きた小さな心揺れ動く出来事があったときに、noteを書く。それくらいの心構えでいたほうが、noteは続けやすいのではないかと思う。少なくとも、私はそれでいい。

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