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「あなたのため」は「自分のため」?

理想を押し付けられた幼少時代

子どもの頃は、母には「あなたのため」と言われて
やりたくもない習い事をいくつもしていた。

ピアノ教室に行くまでのとても憂鬱な気分。
今でもときどき思い出す。
思い出すと、ブワーと灰色のモヤが私を覆ってくる気持ちになる。

母には
「これじゃダメ」
「できない子だ」
と否定をされてきたり、

「これをしなさい」
「こっちがいい」
と先回りして指図されていた。

小学4年生になると
「地元の中学には絶対行ってはダメ」
「どこでもいいから私立中学へ行って」と言われ
中学受験をすることになった。

受験なんて何の興味もない。
小学校の友達と一緒の地元の中学へ行きたい。
…なんて言えるはずもなく。
否定されると分かっていたから、言う前から諦めた。
どうせ言っても無駄なんだと、諦めていた。

この頃から、色々なことを諦めるようになっていた。
何を言っても否定をされる。
失敗しないように母が先回りして指示をしてくる。

自分に起きた出来事は、人のせいにするようになっていた。

「だってそっちが」
「それはあの人が」
「これをやるとあの人が喜ぶ」
「そんなことをすると、あの人にこう思われるよ?」

主語は全部、私以外の人。
主語って、その文の主役。
私の会話の主役は全部、私以外の人だった。

「自分」を取り戻した大学時代

そんな中、「自分」を取り戻した出来事があった。

大学のとき、付き合っている彼氏にフラれたのだ。

付き合って3カ月のときだった。
私は彼が大好きで、大恋愛中!っていう状態だった。

元カノが忘れられないという理由で、ごめんなさいと言われた。
付き合い始めは好きだったらしいけど、日が経つにつれて元カノと比べるようになって、元カノへの気持ちが大きくなったそう。

私だけ浮かれていたのだ。
頭にゴーーン!と岩が落ちてきたような衝撃。
別れを告げられた直後は、放心状態だった。
信じられなくて、頭がグラグラしていた。

時間が経つにつれ、ネガティブな感情が一気にこみ上げてきた。

「え、明日から一緒にいれないの?」
「明日から私、どうしよう・・・」
「何を励みに過ごせばいいの?」
「もう何もない、もうダメだ」

混乱や悲しみ、寂しさ。
たくさんの感情を処理しきれないまま、その日は寝た。

翌朝起きたときは、ものすごい体が重たかった。
起き上がるのがやっとだった。

今日は1限から授業。
でも私の精神状態は、授業どころではない。
原付で50分かけて大学へ行くどころではない。

でもその時にふと思った。
ん?授業?
私がこんな状態なのに、大学は授業をやっている?

そう、私に何が起ころうと、時は淡々と進むのだ。
日常は淡々と続くのだ。

みんなは大学へ行き、いつものように授業を受ける。
私が悲しんでいるからと言って、先生が授業を止めてくれるわけではない。
誰かが悲しんでいる私に気づいて、慰めに来てくれる訳でもない。

話を聞いてほしいなら、自分が友達に電話をかけないといけない。
人に会って話をしたいなら、自分がその人に会いに行かないといけない。

「自分」が動かないといけないんだと気づいた瞬間だった。
自分のことは、自分で決めなければ。
「私」はどうするべきか、自分でじっくり考えた。

よし、大学へ行こう。
布団から出て、立ち上がった。

あの選択をしたから

「大学へ行こう」
あの選択をしたから、
自分のことは自分で決められる、自分で動かないとはじまらない と気づいた。
自分の足で、自分の人生を生きなければ と思った。

子どもの頃のように
母が指示をしてくれる訳ではない。

自分のことは自分で決められる。

私の選択が間違っていたとしても、
「間違っていた」と自分が学べばいい。
自分で責任を取ればよい。

あの出来事から20年経ち、
今も「自分」の人生を楽しくしようと「自分」で模索している。

自分の人生は、自分が主役。

はじめる前から諦めたくない。
可能な限り、色々と試してみようと思う。

娘たちにはそんな私を見て、今は環境を選べないこともあるけど、
最大限の努力はしてみようかなと感じてくれたら嬉しい。

母の言う「あなたのため」は、結局「自分のため」だったのだと今は思う。
娘には「私はこう思う」と文の主役は「私」で話していきたいと思う。


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