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シン・ウルトラマン (2022)
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「ウルトラマンでこういう画を撮りたくてそこはめっちゃこだわりたいんで、あとはその予算と収益を引っ張れるいい感じの役者と主題歌手配しといてください」
…とは流石に発注してないとは思うが、役者探しにリソースを割くくらいなら他にもっとこだわりたいところがあるんだと言わんばかりの、とにかく「撮りたい画」ファーストさがヒシヒシと伝わってくる映画である。
「ウルトラマン」ではなく「シン・シリーズ」として何か求めるものがあるユーザーにとっては肩透かしを食らうだろう。
そもそも米津の荘厳な主題歌からして本作と雰囲気が違っていて、一周回ってちょっとシュールさすら感じた。
つまるところ「シン・ウルトラマン」はゴリゴリのヲタク映画である。
オリンピック開会式演出にまつわる諸問題とも関連してくるが、サブカルチャー界で活躍する人間をメジャーシーンに引っ張り上げて持て囃すことが何をもたらすのか、いろんな人が考えなくてはいけないと思う。こっちは作ってないから関係ないではなく、コアな人間をオファーするからにはそれ相応のリスクと責任が伴うのは当然である。
話題になっている長澤まさみへのフェチズム全開の扱いも、アスカラングレーへのそれと同じと言ってしまえばそれまでの話であって、最大の問題はその嗜好性を誰かがこのメジャーのフィールドに持ち上げてきたことにあるんじゃないかなあ、と思ったりはする。
まぁ、観ていてあまり気持ちの良いものでなかったことは、間違いないけれど。
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