興味を持たれることと迎合することと

 興味を持ってもらおうとする意志の行く末に、持ってもらいたい相手にへりくだり迎合しようとすることはそぐわない。それは当たり前のことだけれど、なぜか、少し立ち止まって考えてみなければ分からないものだ。
 誰かに自分の何かをアピールしたいがために、その内容よりも、「いかに興味を持ってもらえるのか」を優先することが果たして正しいのか? そういった疑問を持つ余裕がなければ、私達のアピールはいつか必ず「創作的な対象本位」に陥る。

 本来、対象本位そのものは興味を持ってもらおうとする意志に反しない。何故なら届け先の相手のことを考え、その相手が飲み下しやすい形にすることは、たとえば幼稚園児であったとしても当然に行う工夫だからだ。だから本能に等しいそれは、私達が長年の間に獲得した尊き伝達術と言える。

 しかし、そういった伝達術をこねくり回し続ける中で、「相手」の想定と現実がズレ、私達はもはやそれを創作してしまっているのである。つまりいないはずの相手に対して何かを伝えようとし、しかもそれに合わせて、伝達すべき内容すら取捨選択する。
 形まで変えた伝えるべき内容は、しかし、実のところその伝えるべき「相手」はいない。幻想であり創作である。それが創作的な相手本位といつことだ。

 それは最早、ただ相手本位であることを目的としている亡霊にも等しい。様々にこねくり回し工夫に苦慮しているようで、実際のところは空転している。だからそうした「視聴者目線」は無駄である。その想定している誰かはいないからだ。それどころが、自分自身が作り出した都合の良い妄想でしかない。

 伝えるべきものに興味を持ってもらおうとするために必要なのは、創作的ではない相手本位か、そもそも伝えるべき内容をもっと強く主張すべきなのである。本来は、相手に媚びる必要も合わせる必要もない。伝える側と伝えられる側がいて初めて、そこに伝達は生じるのだから。

 伝えることの現実は、当然のことながら、伝える内容本位こそが前提である。

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