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わかりやすさとは、わかりにくくすること

 わかりやすいことは大切だけど、わかりやすいことは問題をわかりにくくすることでもあるのを、知っておくべきだ。
 なぜならわかりやすさとは、何かをギュッとしてまとめたり、スパッと切り上げてしまったり、余計な何かを隠してスッキリさせたりという、操作の結果だからである。
 大抵の場合、わかりやすさとは「全て」の反対の言葉になる。わかりやすくなったものには「元」があって、その一部はまとまって一緒くたになり、切り捨てられ、隠されているのである。
 だから、わかりやすさとは一部なのだ。けして全てではない。
 それは確かに物事を理解しやすくするための尊い技術。複雑な社会を様々な趣味趣向の人々と暮らさなければならない私たちにとって、わかりやすさは生きやすさ。それはとても重宝するし、コミュニケーションも円滑になって、前に前に進みやすくなる。
 しかしだからこそ、わかりやすさに全幅の信頼を寄せることは、つまり罠なのだ。それは無条件に良いものではないし、わかりやすさを礼賛し続けて、わかりにくさを遠ざけ続けることは、その人の「理解しよう」という能力をどんどん削り取ることに繋がってしまう。

 いわばわかりやすさとは、究極的に、「口を開けてれば、ドロドロになった情報がすぐお腹にダイレクト」ということなのだ。誰がどうやって、なぜそれをドロドロに溶かして飲み込みやすくしてしまったのか、そういうことに頓着せず。口を開けるだけの動物になってしまうことを、どうして怖がらないでいられるだろうか。
 そこに違和感を覚えなくなってしまえば、いずれ私たちは、情報を噛み砕く歯も、飲み込む筋肉も、消化する器官すらなくなって、与えられたものを信じて実行する生きた機械になるだろう。
 それは果たして、人として求める姿なのだろか。

 わかりやすさというものの先にはそういう末路がある。もちろん、絶対ではない。これは極端な話だ。でもそういう危険と隣り合わせになっているのがわかりやすさの追求であって、わかりやすいことは大切だけど、でもそれは自分で「問題を理解する」ことを妨げてしまう効果もあると、そういう話、そういう未来が見えるというわけなのである。

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