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昇進した「目立ち」と、裏切られた「地位」

 良かろうが悪かろうが、今の時代には目立つことが重要な意味を持つ。目立てばそうするだけ、その存在の地位は上昇していく。ただし、その「地位の上昇」が自動的に有利に働くということがないという点だけは、かつてとは違う。
 だからこの「目立つ」というのは、「それを上手く利用できれば」という条件付きで、良いにつけ悪いにつけ現代では重要である。それを踏まえた上でなら、目立つことは常に私達の味方である。目立つことは、それによって価値ある何かを惹起する以上に、もはやそれそのものに価値がある。
 本来目立つことは、自動的にその人の地位を向上させないものになったが、それを加味してもなお、それそのものの放つ価値が高まっている。その勢いは留まることを知らず、もはや何につけても、「目立つ」は有力である。それを巡って争いが起こるほどに、目立つことの輝きは眩い。

 これほどまでに、「目立つ」の価値が高まったのは、ひとえに私達が、自分の信念よりも他者の評価を気にするからである。自分が「こう思う」という価値基準は、今や二の次である。それよりも私達は、他者が「こうだと言う」ことの方に、耳目を集めてしまう。寄り添ってしまう。頷いてしまう。はては、憧れと尊敬でもって信用してしまう。
 そして、他者という大多数が信奉する基準は、というよりその評価をされるに値する土俵に立てるということが、つまりは目立つことをきっかけとするのである。翻って言えば、目立たなければ評価すらしてもらえない。多くのコンテンツとトレンドと言説であふれかえる現代において、強く光を放って目立つことは、他を抜き去るには必須なのだ。
 だから、目立つことは重い。
 まるでそれそのものにこそ価値があるのだと、思われてしまうほどに。
 そしてその思いは実際に、目立つことに大いなる価値を与えてしまった

 良かろうが悪かろうが、「目立つことが正義だ」と嘯けるのは、現代社会のこのような、価値基準の定義がある。それは偽りではない。実際には目立つことは正義となっている。しかしそれは真でもない。
 本来、目立つことは何か別の価値あるものを引き寄せるためのきっかけや手段でしかなかった。かつてその昨日は、地位の向上に役立っていたものだが、もはやそれに留まらない力を手に入れてしまった(そのように私達が認識している)。
 その代償として、私達が信奉していた「地位」というものは、少しその価値を落とすこととなっている。それよりも「目立つこと」がこの社会に重要視されている結果として。

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