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広く大きく「自己責任」など取れると思うな

 人生は総じて自己責任だが、それは無限の自由に対するものではない。その点において私たちは、自己責任を勘違いしている。
 それを理解するには、子の人生を考えてみるのが良い。子供は責任において例外だ。なぜなら彼らは自分の生き方をコントロールできないまま、多くの時間をすごすから。そして周囲の影響を大いに受けながら、人生の方向を決められていくのが子供である。
 自己責任がはじめて求められるのは、十分に狭まった人生を子供が歩み始めてからだ。これはつまり、子供の頃は何者でもなく自由だからこそ、そこに責任を求めてはキリがないということである。選択肢がなくなっていき、何者でもない者が何者かになり、やるべきことが決まり、そして進む道がほとんど狭まった場合において、限定的な自己責任がスタートする。

 それが本来の自己責任への認識というもので、限りないすべてに対して被せられるものと思っているのなら、それは甚だしい勘違いである。たとえば人生とか、生活とか、国とか、生き方とか、他人との関係性とか、私たちにかかわる何かが広ければ広いほど、責任というのは薄くなって当然である。
 ましてや私たちはそもそも、誰だって一度は子供だったのである。その人生の方向性を、未来を、行き先を、自分に責任があるほど完全に決めていけたとするなら、そんな幸せなことはないはずだ。
 今、ここに立っている私たちは、子供の頃誰かに決められた人生のレールに沿って動いている。もちろん多少の脱線はあるかもしれない。切り替えレバーを動かせなかったり、余計に動かしたりすることもあったかもしれない。
 でも、私たちは皆、責任のない子供時代をすごし、その延長線上に自分を形づくるのである。それはそうなってしまった結果だ。止めることも、大きく変えることもできないし、そのタイミングもない。

 そう考えるとやはり、自己責任など本当に本当に、限定的な物事にしか使えない言葉であるべきはずだ。人生など、生き方など、この生活や日常において、未来など誰もわからず過去にすがって生きるしかない人間にとって、自己の責任すら、重くて取れるはずもないものなのだ。

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