まずもって「雰囲気」による創作活動
この世のほとんどの作品は雰囲気で作られている。往々にして「作品」とは創作物のことであり、クリエイティブな行動の結果生み出されるものだ。そしてそれはクリエイターの頭の中のものを、この現実に「再現して」いること他ならない。だから、この世のほとんどの作品は雰囲気なのだ。それは「必ずこうだ」と断じられるものではない。それを理解すること、分析すること、共感すること、見比べること、そして語ることになんら「正解はない」。
ただもちろん、この雰囲気に論理性を持ち込むことは可能である。確かに作品は雰囲気がほとんどであるが、それでも全てがそれで構成されているわけではない。むしろ雰囲気のみならず理論によってクリエイティブというのは着実な方向へと航海していけるのであり、その範囲内で雰囲気が功を奏するものなのだと言えるだろう。
実態として「雰囲気」。それを繋ぎ止めるのが「理論」。創作された作品というのは情動的な原動力によって進んでいき、その2つによって制御される。だが情緒は雰囲気に左右されるから、どうしたって作品はそれが支配的になるのである。
そのため、作り出された作品を理解するのには時として理論は役に立たない。それは単に雰囲気だからだ。そしてその雰囲気に寛容でなければ、それを認めるというのでなければ、時として「作品」というものを、私達は変な決めつけによって閉じ込め、その姿を把握することも困難になる。
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