見出し画像

祖父の葬儀は、柔らかな絨毯を敷かれて。

 集まることが幸福に思えるのは、多分、そうすることで一緒にいる人々の暖かさを感じられるからだ。たとえそれがかなわなくとも、そうおもえるからこそ、人は集まるのだし、集めようとするのだ。

 その「会」が終わった後も、皆は名残惜し気にその場に集まって、まるで、互いに繋がった緊張の糸を、それぞれが引っ張り合っているかのように、忙しなく、しかし静かに様子をうかがっていた。
 それは死者を弔う会だった。死体を箱に横たえ、さらし者のように顔だけが見えるようにし、直接関わりのない者も含めて多くの「関係者」が沈痛な面持ちで別れを告げていったのだ。

 それは、午前中いっぱいかかった。
 その後は眠気をこらえたくなるような様々な手順が消化され、気づけば外は暗くなっていた。

 ここは都内の中心からはやや外れた、とある街にある12階建てのビルだ。窓からは街明かりに煌めく夜の景色を、眼下に収めることができる。まるでホテルのフロントのような、きらびやかなロビーには数十名の親族たちが集まり、遠方より来た者のため、タクシーを待っているところだった。大きな自動ドアはきれいに磨かれ、両脇には高価そうな壺が置いてある。
 足が沈み込むような毛の長さのカーペットは銀杏色で、ロビーからは3方向に通路が伸び、いくつもの個室が並ぶ。その他、少し奥まった場所にはエレベーターホールもあり、ICカードを持つ者ならば登録された階に行くことができるようになっていた。

 つまり、ここは一見したところ全くホテルのような内装で、何も知らない人がうっかり入り込んでしまえば、絶対に勘違いしてしまうほどに設えられた内装をしていた。もちろんそこに、大勢の喪服の人々がいなければ。

 菊池俊はそんな場所にいて、憮然とした態度で壁際に立っていた。亡くなったのは彼の祖父だ。そのために彼は、入社したばかりの会社を今日だけ休み、この会に参加していた。彼の視線の先には、帰ろうとする親戚たちに挨拶をする両親がいた。なぜ、あんなにも祖父のために頭を下げることができるのだろうと思った。
 俊にとって、祖父は何者でもない、ただの血縁上の祖父でしかなかった。父の父である彼、菊池大介はとにかく昔気質の人間で、3人の子を送り出し妻が早くに亡くなってからもずっと、仕事一筋で孤独に生活していた。
 俊の父親は、実家に帰れば必ず自分の妻が家のことを世話せねばならなくなる、というのをわかっていた。そのため、家族の誰も自らの父に会わせることはなかった。だから俊にとって、祖父と会うのは今日が初めてだったのだ。そこに誰かが死んだことの恐怖はあっても、知り合いが死んだことの哀しみがないのは当然である。


 語るべきものを何ひとつも待っていない彼は、ただ、他人の死のために労力をかける両親を観察していた。いくら親族と言っても、それは”他人”の知り合いにしか思えない。そんな相手に対しても、両親達はにこやかだった。この葬儀を開くために様々な苦労をしたことを、俊は知っている。遺品整理に始まり、相続や住宅、せねばならぬ人間への連絡など、死んだ祖父に代わって全てのことを行ったのだ。
 それは最早、生前に祖父の家のことをやらされるのと、なんら変わりがないように俊には思えた。しかし、それは当然のことなのだ。仕方のないことと言っても良い。そんな諸々を乗り越え、そしてこれからもまだ待っている様々な面倒事に立ち向かう準備をしながら、なお、その合間にこうして、祖父の関係者の「ご足労」や「お悔やみ」をねぎらっている。

 そんな「会」を、俊は馬鹿馬鹿しいと思わざるを得なかった。今ばかりは、彼は1度たりとも祖父と一緒に遊ぶなどできなかったあの時代に帰っているかのような心情を抱いていた。俊は確かに社会人だったが、このときばかりは、彼は自分を子供だと思った。そして遥か大人である両親の気持ちを、仕組みのわからない機械をただ眺めているかのように、壁際に立ち、見つめていた。

「俊、お前も挨拶」

 だから、そう父に言われたときに、俊はまさに聞き分けのない子供のように、その場からすぐには動けないでいた。父は苛立つようなことはせず、かたわらの年老いた女性に気遣うような視線を向けながら、もう1度、俊の名を呼んだ。俊はまだ動かない。動けなかった。
 すると、父は手招きをする。左手を大きく上に挙げると、父の喪服の袖が下がり、細い腕があらわになった。そのとき、煌々としたロビーの照明が、父の掲げた手を光らせた。きらびやかなロビーにあって、その姿は周囲の景色に引き立てられるように、俊の目の中で強調される。
 そして腕の先についている、その神々しい手、白く光る指がきれいに揃えられ、2回、3回、と上下に動く。それは言ってみれば、なんのことはない手招きだった。誰かが誰かを呼ぶための言葉の代わりになる身体の仕草。
 しかし俊にとって、それは彼自身を子供から大人へと再び立ち戻らせる、おまじないのようなものに映った。俊は慌てたように頷くと、父たちの元へ歩いた。毛の長い絨毯の感触が、今日のために買わされた新品の靴を通して感じられる。この会場はこんなにも柔らかい床をしていたのかと、俊はこのとき初めて気がついた。
 それは、夜でも街明かりがきらびやかでともすれば眩しいくらい忙しない街中にある、ホテルとも見間違えるような落ち着かない空間にあって、唯一、最早その想いを伝えることも、伝えられることもない哀れな死者を、まるで優しく抱きとめるための柔らかさだった。
「はじめまして、孫の……菊池俊です。この度はわざわざ――」
 挨拶の仕方は知っている。それは彼が大人だからということ以前に、彼の両親が散々それを言ってきたのを目の当たりにしているからだ。それでも、彼が両親たちの馬鹿馬鹿しい苦労を少しでも分かち合おうと思ったのは、先程の豪奢な光景と、彼の中に芽生えていた、父の真の気持ちへの邪推だった。父は、本当は祖父と家族を、もっと引き合わせたかったのではないだろうか。それが叶わなくなった今、父はどのような思いで準備をし、人々に挨拶を交わしているのだろうか。
 その自分自身の気持ちをただ押し留めておくことができず、俊は身体を動かすしかなかったのである。

 夜の街にあっという間に溶けていくタクシーの列を見送りながら。このような「会」を開くことの意味を、俊はやはり理解できないだろうと思った。後ろの、12階建てのビルを見上げる。窓からはポツポツと明かりが漏れており、それらが目のように、俊を見返しているように思えた。
 葬式に疑問を持つ彼を諌めるように。結局、それはするしかないものである。参加者が減ったロビーに3人が帰ってくると、残っていた人々の安堵した空気が伝わってきた。
 あと数回、これを繰り返さねばならない。それは馬鹿馬鹿しい行為に思えたが、「会」のためには、そしてそこに集う人々のためには仕方のないことだと俊は思い直す他、なかった。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?