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非・世界への誘い:消失者、大越美墨①

 世界には無駄が多い。袋に入ったお菓子1つ1つを包む個包装、宅配便のサイズの合っていない段ボール箱、顔を突き合わせての会議、印刷しなければ突き返される資料、好きとか嫌いとかの余計な人間的感情。
 無駄は削減されなければならないのに、一向にその気配はない。私たちは無駄と共に生きている。無駄がなければ生きられないかと言っているかのようだ。もしかすると削減する気などないのかもしれない。誰かがやればいい。皆、そう思っている。

 大学3年の春、大越美墨(みすみ)はこの世から消えた。なんの誇張もなく、彼女は自分の住んでいるはずの向市からいないことになっていた。

 向市は新幹線の駅もある中規模都市で、周辺の観光地へのハブとして観光客も多く出入りする。比較的若者が多く、人の動きは活発だった。市は、繁華街と住宅街が河で東西に二分され、美墨の家は繁華街にほど近い、比較的良い立地の家に住んでいた。なんでも、100年位前に先祖が染物屋をやっていたらしく、もう廃業しているのだが、そのおかげでこんな場所に居を構えていられているらしい。曾祖父の代から花屋をやっている大越家だが、店で働くのは母と兄、それからおばあちゃんくらいであり、脚本家の父と、学生の美墨、それから妹の美白(みしろ)は日々忙しく、土日の手伝いでくらいしか、店の仕事のことはわかっていなかった。

 美墨の存在がこの世から消えてしまったのは、そんな花屋兼自宅から、彼女が朝の講義のために大学へ向かっているときだった。
 特に今の生活に不満があるわけでもなく、前日に家族と喧嘩したということもない。ただただ、漫然と大学をサークルとアルバイトを中心にして2年間過ごし、そろそろ就職のことも考えなければ、と思い始めていたときだった。言うなれば、周囲の斜に構えて人生に対する悲観論を唱えるような知り合いたちよりも、美墨はずっと、人生を前向きに考え始めていたときだったのだ。
 河沿いに桜並木の目立つ、観光地として有名な道を通り駅へと彼女は向かう。もう、何週間も前から春の花のことは家庭で話題になっていたので、美墨は桜には見向きもしなかった。その日は大学の前期が始まる日で、短い冬休みだったこともあり寝坊などはなかった。やや余裕あるくらいの時間に家を出て、駅に着く。そこから3駅くらいで「大学前」に到着する予定だった。
 車内は案外、ガランとしていた。春先の生ぬるい風に誘われたように、人々の数は駅の構内より、駅のコンコースや緑地、屋外の休憩スペースの方が多かった。そのため、美墨は特に意識することなく、空いている座席に座った。対角線上には子供と、その父親らしき男性が乗っていた。扉が閉まる。美墨は、昨日の夜から部屋に閉じこもりきりの父のことを思い出した。忙しいらしく、しばらく一緒に食卓を囲むこともなかった。家の廊下で顔を合わせても、何か考え事をしているようで話しかけづらかった。
 それに比べて、向こうに一緒に座っている親子は仲が良さそうだ。子供が窓の外を見てはしゃいでいる。それを男性が一緒になって喜んでいる。春先ののどかな風が、電車に巻き取られて勢いよく入ってくる。美墨の髪が驚いたように揺れるのと同じくらいに、電車は地下へと入っていった。
 人の往来が激しく、市外との接続の関係で、向市の市営鉄道の駅は7割が地下にあった。大学前ももちろん地下駅であり、少し前までは、新1年生やサークル勧誘の上級生などで、息もできないほどにごった返していたのだ。
 地下に入ればもう目的の駅へ着くというところ、美墨は母親からの着信に気づいた。まだ、花屋は開店準備で忙しいはず。美墨は疑問に思いつつもメッセージを確認すると、途端、辺りは真っ暗になった。
 停電だ。
 そう、彼女は最初は思った。しかしおかしい。彼女が今手に持っているはずのスマホの画面すら見えない。電池切れかと思うも、さっき目に映った充電の表示は、フルに近かったはずだ。
 美墨は自身の鼓動の音が脈打つのを、ただ、黙って聞いていた。元々、あまり感情表現が豊かな方ではない。妹の美白と違って、おばあちゃんにも「プレゼントのあげがいがない」とまで言われるくらいに、リアクションの薄いことで有名である。所属している謎解きサークルでイベントに参加するときも、美墨だけ謎が解けて独りスッキリしている横で、他の皆がわいわいと言い合いながら、頭を悩ませているという状況が良くあった。
 ……それを考えると、感情表現が豊かでないというのは語弊があった。美墨はとにかく口下手で、コミュ障で、まるで存在が透けているかのような、そんな3女なのである(3女とは大学3年生の女子、のこと)。

 電車が止まった気配がした。美墨は立ち上がり、非常時のボタンがあったはずの壁面を探る。しかし、目当てのものはなかった。ふと、背後に気配を感じて振り向く。美墨はあの親子かと思って話しかけた。
「あの……ライトつけられますか」
 だが気配は答えなかった。そういえば子供が全く騒いでいないことに、美墨は気づいた。窓の外を見てあんなにはしゃいでいたのに。声どころか、息遣いすら聞こえてこない。途端に、彼女はこの空間がすごく不気味な、得体のしれないものに感じていた。ここはどこだ? そう思った。美墨は壁を素早く探り、電車の両扉らしき感触にたどり着く。案の定、手動で開ける用の手をかけるへこみがある。美墨はそれを思い切り引っ張った。
「眩し……!?」
 途端、視界が真っ白に埋め尽くされる。目の痛みとともに、見えていたはずのものが戻ってくる。美墨は駅のホームに出られると思って1歩、前に進み出た。しかしそのとき、背後にいた気配が彼女の腕を強く掴んだ。
「おい、ちゃんと前見てんのか?」
「……?」
「そのままだと落ちるぞ、お前」
 長身の男性だった。年齢はわからず、ただ、全身黒い服を着ている。美墨は大学で、こんな格好でいつも過ごしているちょっと世間とは感覚の違ってしまっている人を何人か知っていたので、あまり違和感なくそういう人だと受け入れた。ともあれ、美墨は黒い男性の示す方向を見た。目の前には、美墨の見慣れた電車のドアがあり、それはいつの間にか開いていた。
 そこまでは良かった。なのに、その先にはあるはずの駅のホームなどなく、四角く切り取られた青空があるだけだった。そうとしか形容できない。ただひたすらに青空だった。去年、美墨は旅行で海外へ行ったが、そのときに見た、窓の外の景色に似ていると思った。もし、飛行機が飛んでいる最中に昇降ハッチが開いたとしたら、見える景色はこれだろう。
 美墨はフラフラと、後退りした。あと1歩踏み出していたら落ちていたと思う。説明を求めるように、美墨は男性を振り返った。黒い男はかったるそうに頭をかくと、何か言おうとして、やめた。
「あの、ここ、どこですか」
「……めんどくせえ」
「え?」
「めんどくせえって言ったんだよ。いいから来い」
「あ、あの……」
 さすがの美墨も動揺が隠せない。電車(正確には電車ではないのだが、美墨はこのとき気づいていなかった)の中を、恐らく先頭へ向かって歩いていく黒い男性の後をついていく。男性はブーツだった。カツカツと音が響く。突如として立ち止まった男性の背中に、美墨がぶつかる――ことはなかった。下を向いていたので、男性が立ち止まったことがわかったからだ。
「いっこ説明しとく。お前、もうあっちに戻れないから」
「……あっち?」
「ああ、存在が消えたからな。戻っても世界律に不都合が生じて、はじき出される」
「……へ、へえー……」
 美墨はこういうとき、なんと言ってよいかわからなかった。というより、”こういう種類”の人と会話などしたことがなく、今までも遠巻きに見ていたり、友達の話に聞いたりしていただけだったから、対処のしかたがわからなかった。なのでとりあえず頷いた。黒い男性はしばし美墨のことを珍しげに見ていたが、特にそれ以上何か言うことはなく、歩みを再開した。
 美墨はついて行くのはやめた方がいいと思った。そうして振り返ったが、既に、来た道はなくなっていた。
「電車の中……じゃない……」
 気づけば、ここは苔むした、石畳の通路だった。湿気た臭いが鼻を濡らす。天井は高く暗闇に飲まれていて、リズムよく並べられた松明らしき灯りが、黒い男性の向こう、白い靄へと延々続いている。
「今更気づいたのか? ”消失者”の自覚もねえのかよ」
 男性がうんざりしたように歩みを止める。美墨にはなんのことだかわからなかった。ここがどこかも。
 その疑問に、男性がため息をつく。彼は再び頭をかいた。癖なのだろう。そして黒い男性は重苦しい口を開け、言った。
「ここは”非世界”だ。あるはずのない世界。お前は”既世界”からここに呼ばれた消失者――非世界にて朽ちゆく者――、覚えとけ」
 背中を向ける男。そのとき美墨の手の甲に熱さが走り、そこには、大学の民俗学の講義でも見たことのない、奇怪な文様が浮かんでいた。

※つづく

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