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「~だけ」に惹かれる私達

 例えば「最も大切なこと」や、「一番であるもの」「これだけは譲れない」とか「数多の中で選ぶならこれ」というような、限定された物事に私達の関心は集まるようにできている。
 というより、関心を集めてしまうのだから、それは散漫な曖昧な漠然とした物事ではなくて、より集中した、はっきりとしていて、そして限定された何かであることは当然なのである。つまり私達の「大切に思う」とか「譲れないもの」といった言動そのものが、この世に無限にある事象の中からほんの少しだけをすくいとってしまう。
 だから、私達はそういう「限定」を好むのだ。そして、それが重要であると思ってしまう。選ぶべきだと思ってしまう。この世の中の可能性の中で、本当に見なければならないものはそういったごくごく一部なのだと、なんの根拠もなく思っている。

 でも、それは私達がそれしかできないから、仕方なくそう思い込んでいるだけなのだ。色々なものを気にするのは難しいし、実際にできるかどうかは未知数である。この世の全てを把握できればそれはいいことだろうが、そんなことできたためしのある人間はいない。
 それが故に、「これだけ」「たった1つ」に飛びつく。そしてこの世の真理はそうなのだと、したり顔で語るのだ。自分自身に言い聞かせるように。
 しかし、真理とは本当にどのような形をとっているかは誰にも分からないし、たった1つだけなのかどうかも曖昧である。そうたとすれば、まだ、その「曖昧さ」自体は正しいはずだと思いたい。だから、もしできるだけ絞れるのであれば、当座の間は「真理は曖昧で数多の可能性を秘めている」ということと、「しかしそうとは限らないかもしれない」ということを、私達は真理だとしても良いだろう。

 結局は、物事を少なく限定的に語っていることには変わりない。けれど、そうだと自覚しての言動であるのならば、自覚しないよりもマシだと言えるだろう。何かを限定的にする言説は、私達に受け入れやすく見える。しかしそれは理解しやすいだけである。それどころか、少ないものや限定的なものだからといって、多いものや散漫なものより、本当に理解しやすいかどうかは未知数である。
 限定的でも深淵なものはいくらでもある。しかし限定的であるがゆえに、それは理解しやすいのだと勘違いされる。

 常に、限定的なことが分かりやすくないことと、複雑さが分かりにくさに繋がらないこと。そしてどちらかといえば私達は、簡単な方になびいてしまうこと。そういったことを自覚する時、私達の真理の探究は、もう少し正しい方向へ向かうものだと信じている。

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