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主人公は誰に苦労を分かられるのか

 主人公は特殊だ。

 ひどい状況にいる。孤独の中で喘ぐ。望みは叶わず、苦労は実らない。何もかもを諦めたくなるが、大切な何かがそうさせない。そしてまた、重たい足を前へと進める。
 ……主人公は大抵、どんな創作の中にいても、報われない。それどころか主人公を貶めようと様々な勢力が牙を向いてくる。それは、主人公の宿命と言えるかもしれない。加えて、それは主人公に求められている役割でもある。
 なぜなら、簡単に報われるような人生を眺めていても面白くないからだ。そのため主人公には、観客に眺められるだけの価値ある道を歩まなければならない。価値ある道とは、まず苦労だ。主人公からしたらたまったものではないが、求められているのだからそれを受け入れるしかない。

 とはいえ、主人公は単に苦労を求められているのではないし、苦労をするのでもない。私たちは最後に主人公が勝利を掴むことを信じている。そして実際に、勝利は約束されている。だからこそ、その苦労を見たくなるのだ。辛いことを乗り越えるという姿を求めるからこそ、そして主人公という役割の持つ力を認めているからこそ、その想いと同じかそれ以上の辛い試練を、主人公に課す。
 それはある意味、主人公の最大の味方は、観客である私たちだと言うことができる。私たちは応援席にいて、主人公の勝利を信じているのである。どんなにその存在が辛酸をなめ、それでも立ち上がるのかということを理解している。主人公の立ち向かう姿に心を動かし、勇気をもらい、自身もまた決起するために。

 作中のどんな登場人物よりも、観客は主人公のことを見ている。1人でいるときも、心の内も、むしろ、最も主人公に寄り添えるのは観客しかいないかもしれない。
 そして、その最大の理解者のために、主人公は動くのである。苦労を求められても、すぐには報われなくとも、信じる視線があるから主人公は動かざるを得ない。この関係性こそがまさに宿命であり、主人公と他の登場人物に線を引く理由でもある。
 主人公の特殊性は、この、「分かられている対象」の違いである。これほど、多くの観客に視線を向けられている存在は1人だけしかいないと言えるだろう。それが故に、主人公は立ち上がることができるし、そうしなければならない。最後まで、その視線を集め続けることが、「主人公」にうまれた責務である。

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