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2つの意味で私達は「応援」する

 キャラクターは応援しよう。彼らはすごいことを頑張ってやっているし、困難を乗り越えようとしているし、とにかく、何らかの形で戦っているからだ。応援されなければキャラクターは、すぐに萎れてしまう。その存在を多くの人に知ってもらうこともできなくなる。ある意味で、キャラクターは神のような存在だ。
 ファンからの信仰が少なければ、キャラクターは消滅してしまう。

 今、自分が好きだと思えるキャラクターを思い浮かべよう。そのキャラクターがやることを、あなたは応援しているはずだ。あなたはそれが架空の存在だと思っていても、味方できると考えられるはずだ。
 そしてキャラクターとは現実にいる場合だってある。創作上の存在というよりは、キャラクターという概念として、ある存在に属性としてくっついている場合だってあるからだ。その存在とはタレントとか政治家とかクリエイターとか、ともあれ名前が知られている有名人である。
 そういう人々に対して、ファンは応援できるし、している。でもその数が減れば減るほど、キャラクターは維持できなくなる。ただの人に戻っていく。

 どんな形であれ、キャラクターはいるし、応援されている。でも1つ区別せねばならない形がある。
 それは、私達は必ずしもそのキャラクターそのものを応援しているわけではないということだ。たとえば、芸能界の闇を痛快に暴いていくことに賛同するとか、閉鎖的な村社会で大成功した女社長の境遇に共感するとか。
 当人の行動やステータスといったものに、私達は応援感を覚えることがある。そしてそれは往々にして、キャラクターそのものを応援する感情とごちゃまぜになる。
 キャラクターに対して人は、そんな何かを切り分けて応援しているはずがない。だからとにかく、応援できると思ったら応援する。でもその気持ちには少なくとも2種類あって、中心への応援と周縁への応援である。

 今一度、好きなキャラクターを思い浮かべて、はたしてそのキャラクターがすること全てを応援できるか考えてみよう。もしくはそのキャラクターがどんな過去を持っていても受け入れられるかを。
 応援されなければ存在を維持できないキャラクターという存在は永遠ではない。それは私達が行う応援という行為がそもそも、キャラクター達の中心ばかりではなく、的を外した周縁にも及ぶからである。
 それゆえに真の応援とは、まさにキャラクターの中心を愛する覚悟と度胸が必要になってくる。

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