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戦う理由は何か。それとも理由がなくとも戦うのか。

 私達が戦う理由は何か。考えなければならない。
 たとえば、戦うには敵が必要だ。だから、敵がいるから戦うのか?
 とはいえ、敵は作り出すことができる。工作をしたり、思い込みだったり、騙されたり。だからそれは純粋に、戦う理由にはならない。

 では何かを守りたいから戦うのか?
 とはいえ、私達が守りたいものとは結局は自分である。他の外側にある諸々を守りたいのは、それが自分のためになるからだ。つまり守るを理由とした戦いは、全て自衛に帰結する。ならばその最適解は逃げることである。
 だからそれは本当のところ、戦う理由にはならない。

 ならば戦いたいから戦うのか?
 とはいえ、この同語反覆は答えにならない。それならば最早、理由を問うことなど無意味だと言っているようなものだからだ。この考えを始めた意味を全て無に返す。
 だからこれを戦う理由とするのは、無価値である。

 我々の戦う動機。本当の動機とは何か。分からない。ならば基本に帰る必要がある。つまり「戦う」とは何か?

武器を使って相手に勝とうと争う。また、戦争する。
互いに力・わざをふるって優劣を争う。
障害を打ち破ろうと努力する。

Oxford Languagesより

「勝とうと」「優劣を」「打ち破ろうと」……これらの言葉から分かるのは、戦うとは、相対する何かよりも上に立たねばならない、と立ち上がることにより発生する感情である。つまりその前提には、自分が、相手よりも低い存在であるという認識がある。
 だから、そう思った瞬間、劣等感の発露こそ戦いの火蓋である。それを切るのは私達の奮起であり、様々な感情のエネルギー、そして行動である。

 これが答えに最も近いのかもしれない。劣等感がなければ戦わないだろう。なぜなら、他の何かよりも上に立とうと思わないからだ。そこに争うりゆうなどない。ただただ1人前の価値観を持って、それを信じて、それだけのために生きて死んでいくことができる。とても幸せだ。
 しかし残念なことに、劣等感がなければ向上心は生まれない。戦うことが立ち上がることならば、まさに劣等感は、私達を立ち上がらせるためのバネである。そのためこの2つは表裏一体だ。

 故に、究極的に私達のこの戦いへの渇望は、向上心を源とする劣等感の現れだ。人間であればこれは捨てることができない。だから私達は戦いをやめられない。やめる時は、成長を諦めた時だ。つまり死ぬ時である。

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