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割り切ることは大人の特権

 対立や衝突や諍いに出くわした時、割り切ることが正解なことがある。つまり自分とは相反する考えを持つ人に対して私たちは、真っ向から挑むのではなく躱したり、受け入れているふりをしたり、受け流したり、そうして誰かと喧嘩をするなどという「無駄なエネルギー」を避けることが正しいことがあるのだ。
 しかし、そんな割り切りは大人にならなければできない。大人。子供ではなく。大人になり、社会を経験して、成長を遂げ、そしてやっとできるのが「割り切り」なのだ。ある意味でそれは、特別な技能と言える。子供はすぐに喧嘩して、無駄なエネルギーを消費してしまうから。
 大人はそれを見てなんとも苦い笑みを浮かべる。ああはならないようにしよう、と子供を反面教師にして。

 だからといって、割り切ることがいつも最善ではない。大人ぶって割り切ってもなんの解決にもならないトラブルが山ほどある。大の大人が全力で割り切ったから、余計にひどいことになった問題がいくつもある。
 子供たちはもちろんそれを見てため息をつく。また大人がやったよ、と。割り切らずに全力でやっていれば良かったのに、と。

 重要なのは、割り切りとは別に最善の策ではなくて、即ち大人が優れているからそれを選べるというわけではない。生きるのに効率的になればなるほど、その人は大人だ。それは無闇にエネルギーを使わない省エネ思考であり、面倒事に首を突っ込まない事なかれ主義である。
 その延長線上にあるのが「割り切る」ということである。単にこれは、大人的な癖である。けして問題解決のための技法ではない。ましてや大人がその経験によって編み出した高度なやり方でもなんでもない。仕方がないから割り切るのである。他にやりようがないから。そしてそのように思考停止しがちだから。
 時には節約などせず、力の限り尽くすことが大切な時もある。けれど「大人」はそれを忘れる。もしくはできない。その経験と成長は、人に割り切りを覚えさせるから。

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