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「揺らぐ」人々の責任問題

 失敗の原因は人にはないと言われている。
 人ではなく、本当に失敗が引き起こされる原因は、たとえば環境や巡り合わせ、あるいは仕組みや、とにかく人以外の何かに潜んでいるとされている。
 しかし、だからといってそれは、本当に誰かのせいで物事が失敗するのではないという意味ではない。それどころかむしろ、あらゆる失敗は人間によって引き起こされる。なぜなら人間は「揺らぎ」の生き物だからだ。それはきっちりと決まりきっていないということで、何かを進めていったり、完成させていく過程においてノイズとなる存在なのだ。

 いわば、人間は物事の構築にとって邪魔者である。だからその原因を人間に求めるなと言われるのは、そのことから目を逸らしたいからこそなのだ。誰もが薄々は感じている。日常に直面する失敗の数々には、必ず人間の責任があるのだと。それを認めたくないから、そうではないと主張する。
 しかし、残念なことに人間がいなければ失敗は起こらない。私達が余計なことをしたり、あるいはしなかったりすることが原因となる。

 とはいえ、その原因をなくそうとすることが、あまり功を奏さないのは事実である。なぜなら人間はそう簡単に変えたりすることはできないからだ。誰かを改善するとか、間違いを正すとか、それらが定着するということがどれだけ大変なことか。
 私達は嫌でも知っている。人の性格は変わらないし、変えようとしてもそこに注がれるエネルギーが計り知れないこと、そして変わったとして、その人が心身ともに疲弊してしまうほどの無理が生じることを。

 そういうこともあって、失敗の原因を人だとしたくないといつこともあるのだ。それを認めてしまったら、人をどうにかしなくてはいけなくなる。しかしそれは難しいし割に合わない。ならばもっと変えやすい環境や仕組みなどに手を付けた方がいいということである。
 もし、私達が失敗しそうな時や、失敗してしまった時。それをどうにかしたいのであれば、少なくとも人以外の何かを変えようとしなければ、ますます失敗は拡大するだろう。
 だがそれは、人に原因がないからということではない。確実に人は原因である。だがそれを変えることを良しとしてしまうほどには、私達は誰かに責を被せられるほど潔白ではないし、平等でもない。

 失敗の解決が消極的方法にしかなりえないのは、そういった私達「揺らぐ」人間の限界による。

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