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私たちは「妥協」に守られ生きている

 人生において妥協は大切だが、「妥協を選ぶ」ということ自体が、そもそも妥協である。往々にして妥協とは最終手段として捉えられ、つまりできれば選びたくないものだ。そのような、妥協の象徴たるまさに「妥協」そのものは、私たちにとってどうしても必要というわけではない。
 でもそれは、いずれ選ばねばならないもので、そのための覚悟をせねばならぬものでもある。妥協は、妥協だからこそいつまでも選択肢にある。どんな状況でもそれは選べて、たとえそうしたくなかったとしても、先に進むためにそうすることが普通なのだ。

 そういう意味で、私たちの人生とは妥協まみれである。当然のことで、残念がるような話でもない。「妥協」という言葉のイメージによって私たちは、それを選ぶことはまさに妥協なのだと思うけれども、そうだからこそ、妥協は絶対的な手段である。ある種それは、私たちの生を保護し、延命している。いつまでも消え去らない「妥協」をいつでも選べるからこそ、私たちは生きていけるのだ。
 そしてその妥協すらできなくなった時、そこに終わりの足音が聞こえてくる。本当に怖いのはそれである。「妥協」は加護だ。それを忌避する気持ちは仕方のないことだけれど、まさか、自分からそれを捨て去ることなど命がいらないのと同じである。
 妥協は「妥協」だ。
 でもだからこそ、それに守られているという感覚を、私たちは忘れてはならない。

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