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エンタメは、「楽しまない」人をこそ気にするべき

 どんなエンタメでも、それがエンタメである以上は「見る人」のことを気にしなければならない。なにせエンタメとは人を楽しませるものであり、見る人が楽しまないのなら、それはエンタメとして失格、存在意義がなくなるからだ。
 しかしそれはお作法の話で、実際のところ見る人を気にしない「好き放題やる」エンタメであっても、それには需要があり、楽しむ人は多い。だから本当のところ、エンタメとはそういう「楽しむ人」のためにそのお作法をやっているわけではない。

 現代では特に顕著だ。
 つまりエンタメが本当に気にすべきは、それに対して肯定的な人ではない。そうではなく、「楽しまない他の人々」に対して、エンタメは配慮をしなければならないのである。そしてそれこそが、「見る人を気にしなければならない」という意味の本当なのだ。
 エンタメがエンタメとして「誰か」を楽しませるためには、その人ではなく、そうでない人々のことを気にし、そのエンタメが「楽しむべき人」に間違いなく届くようにしなければならない。
 それが、エンタメに課せられた試練だ。
 余計なことである。単に楽しさだけをエンタメに込めていられるのならどんなに良いか。しかしそれではダメなのだ。エンタメは、それを肯定してくれる人のためにこそ、そうではない人に向き合わないとならない。
 そうしなければ、そのエンタメはあっという間に大多数の人間になじられ、そしられ、そっぽを向かれ、誰も手を差し伸べてくれないまま、沈んでいく。もちろん、幸運が味方をすることはある。何がエンタメになるかわからない現代で、予期せぬ風に乗り、順調に進めることはなくはない。
 でもそれは例外だ。
 普通の船は舵取りがいる。様々な悪天候に煽られながら、航海を続けねばならない。それがつまり、「見る人を気にする」ということだ。繰り返すが、エンタメを楽しんでくれる人ではない。そうではない全ての人を、だ。

 エンタメがそのお作法ではなく本当に気にすべき「人々」に目を向けられた時、初めて正しく前に進み始めたと言うべきだ。向いてくれている人のために、向いていない人に配慮する。
 矛盾した行動。
 しかしそれこそが、エンタメを真にエンタメとして輝かせることになる。

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