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「実績」はゲームか? それとも人生か?

 この世のゲームに「実績解除」というものが実装されたのはいつだろうか。ここで言うゲームとは、いわゆる「テレビゲーム」のことで、プログラムされたデジタルな遊びのことを指す。
 このゲームに、あまりにも静かに実績は取り付けられ、意識する間もなくどんどんと広がっていった。

・100時間プレイ
・HARDクリア
・アイテムコンプリート

 こんな具合だ。最早「実績」のないゲームはないと言ってもいいし、今後、なくなるということもないだろう。それくらい、実績という概念はゲームにピッタリとはまってしまった。

 どうしてだろう。以前は、実績がなくてもゲームは存在していたのに、そして、そうであることはなんのデメリットもなかったはずだ。しかしいつの間にか、ゲームを作る側は何かの需要をキャッチして、ゲームに実績を設け始めた。まるでゲームというものはそうでなければならないと言うかのように、ゲームは、ゲームそのもので遊ぶことに加えて、「実績解除」の作業をするものになった。

 そう、「作業」だ。もちろん、そういうのが好きだという人も、没頭できるという人も、燃えると言う人もいるだろう。しかし、実績解除はどこまで行っても作業だ。誰かから命令され、実行する終わりのあるタスク。そういうものが、「遊び」であるゲームにくっついていることは、ちょっと奇妙で、面白い。

 想像するに、実績がゲームに取り入れられたのは、ゲームそのものが実績になっているからだ。誰かに見せびらかすことを当たり前とし、その誰かの数もネットを介して大勢になっているから。
 あるゲームのこういうことをできました。それはこのゲームのプレイヤーのうちの何パーセントに入ります。
 発売3日でこんなに実績を解除しました。実績をコンプリートしました。隠された実績を見つけました……云々。
 そういう、「ゲーム体験」そのものが実績化し、他者とのコミュニケーションの種とすること。それが、今のゲームには求められているのだ。だから、ゲームを作る側から、実績を提供して、そういう楽しみ方を演出する。

 ゲームだけではないかもしれない。あらゆる娯楽が実績化している。流行りものに乗ること、あるいはいち早く目をつけること、誰かに教えるために作品のオタクになること、古くてマイナーなコンテンツを教え合うコミュニティにい続けること。

 私たちは娯楽を、娯楽として楽しめているか? そこにはどこか、「実績」のふた文字がないだろうか。そして、それを解除することに時間を費やしていないか。そのような毎日が続くと、その人の人生は、それすらも実績になるだろう。いつ、どこで、どうやって、何をしたのか……私たちの全てなど、実績に過ぎないのかもしれない。

 少なくとも私たちは自ら、そのように生きていることが大半である。

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