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癒やしと毒の「百合」の園

百合
女性の同性愛のこと。また、それを題材とした各種作品。作品の場合、女性同士の恋愛だけでなく恋愛に近い友愛や広く友情を含んだ作品も百合と言うことが多い。

Wikipedia

 百合という言葉についてこの時代に、わざわざ語ることは不必要かもしれない。それはもはや普遍的な2つの意味をもっていることが、一般的に知られているからだ。
 花と、そして同性愛。さらに後者は、ことさらに美化された、主に男性消費者から見た癒やしと毒の世界であることもまた、語るまでもない。

 だが百合は、女性同士の同性愛を描いたもの(ジャンル)などと言う、現実的な定義を受け入れる状況にもはやない。それは「園」だ。しかも単なる園ではなく、そこには確かに百合の花が咲き乱れ、特別な感情が芽生え、そしてその裏に流れる毒々しい液体が流れている。
 それは確かに現実ではない。もちろん。現実に百合などというものはないし、あるなどと信じられていない。その上、あることなど認められない。それは常に清らかな想像の上に成り立っている。理想の下に存在している。けれど一方で、少なからざる棘が花園の下には隠れている。

 もはや、百合という言葉や定義は軽い。軽くなってしまったほどに、重くなった。それはなんにせよ(二次元的に)どこにでもあるもので、しかしそう簡単に「ある」と、「そうなのだ」と声高に叫べるようなものでもない。
 だからそれは求められた。どこにでも。そしてそれは、もう百合という言葉や定義すら不要なほどに、広く存在するものになった。
 だからこれは、「こうである」と決めつけるのが難しい存在だ。むしろ、固定化された定義や概念は、百合にとって邪魔である。その園に必要なのはまさに、ただ百合だけなのである。それ以外はいらない。多く語る必要はない。
 まして同性愛や現実性や社会的な正しさなど、なんの意味も持たない。

 癒しと毒の百合の園。ただそれだけで充分だ。百合とはもう、「普通」になった。そう思えるほどに、それは創出され、認められ、好まれ、そして、毒すらも求められうるものとして、この世にある。

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