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「基本的な差別意識」を育んでいく

 どのような状況にあっても、私達が様々な属性を「同時に」併せ持つ存在であり、かつ、それを意識するとしないとにかかわらず「認識している」からこそ、そこには「基本的な差別意識」というものが存在する。
 つまり、私達はそれぞれ、異なる組み合わせの属性を持っているから、それによるインプットやアウトプットの質と量の違い、そしてその処理の仕方、今現在のアドバンテージなどの「ステータス」がことなるのである。単純化して、あらゆる属性の掛け合わせが私達という存在であることとすると、それらは比べようがないのではなく、「有利な組み合わせ」と比べて「不利な組み合わせ」は明らかに劣っているのだと言えてしまう。
 もちろん、どういう意味において有利なのか不利なのかということはその時時によって変わるが、だとしてもそれはルールの違い、前提条件の違いによって変化していくのだと言っているにすぎず、属性の組み合わせによっては誰かが不利になることを、否定しているわけではない。

 つまり、この世に「不利」は存在する。どうしようもなく。そしてその役割を押し付けられるのは「運」だとする声もあるだろう。一方で、それを有利に変えられるのは当人の「努力」なのだという声もある。
 とはいえ、私達は誰も「有利」を好むのであって、「不利」を好むのではない。だから重要なのは、見識を間違えないための「基本的な差別意識」なのである。これは、差別を「持つという意識」ではなく、差別が「あるという意識」のことなのだ。言い換えればこれは差別行為ではなく、差別への見識である。

 有利という状態そして不利という状態があることは公然の事実であり、そこに優劣が生ずるのはもはや自然の摂理である。だが、それを笠に着て、不利であったり劣っていることを、「属性」として悪だと捉えることは断固として間違っている。
 なぜなら、誰かが不利である時、それは様々な属性の掛け合わせによって、そのように見えているだけだからだ。その「見えている」は時と場合と意識と常識と、様々な前提条件によって変わる。それは最終結果的な「様態」であって、属性ではない
 属性は同時多発的にその人として組み込まれていく(捨てることもできはするが、稀である)、いわばその人そのものである。しかし、様態は、総合的にそう見える結果でしかない。私達はその後者を参考にして、不利だとか劣っているだとか言っているに過ぎない。だからそのことを、まるで属性かのように言い表すのは間違っているし、人間存在を真正面から認めようとしない邪悪である

 しかし、私達は時折、この「差別」をしてしまう。なぜなら私達は、見えるものが存在しているのだと絶対的に思い込む癖があるからだ。実のところそれは反対であるにもかかわらず。私達は単に、見たいものを見ているだけなのにもかかわらず。
 そのせいで、私達は「劣っている」と感じたものを、その人の属性だと思いこむことがある。それは単に組み合わせた結果の見え方なだけなのだが、思い込んでしまったら振り払うのは難しい。
 だから、このような私達のどうしようもない特性を、つねに分かっておく必要があるのである。それが、基本的な差別意識を持つということだ。せめて基本的に、私達は見たいものを見る結果として、悪いと決めたものを属性化してしまうことをおぼえておきたい
 そしてふと、差別を目の当たりにした時に、それを少しでも正しいものの見方へと修正できるようにしておきたいものだ。

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