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個人で作る芸術に、どうして集団の常識を求めてしまうのか(あるいはその逆)

 芸術という言葉を聞く時に私達が思うのは、それが高尚な存在であったり、何か崇高な使命があるもの、世界的に認められているなど、どこか「遠い」というイメージである。芸術という言葉はかなりざっくりとしていて、言ってみれば曖昧だ。だからこのような、身近でないイメージを抱くことになる。
 けれど芸術とは、たとえばエンターテインメント(ゲームとかアニメとか)もそうであると言えるし、別に高尚なものではない。それどころか、現代では多くの人が動画をSNSに上げたりして、良くも悪くも話題になっており、これらにも芸術性は存在する。
 となれば、何気ない日常や生活、ごくごく個人的なことであっても、それは芸術なのである。だから、本来的には芸術とは、集団的なものではなくて、個人的なものであるはずなのである。

 なぜなら芸術は「個人制作」と「集団制作」があるわけだが、より1つの芸術性を求めやすいのは、前者であるからだ。個人でなければなしえない芸術性がある。一方、集団でなければなしえないのは、芸術性ではなく商業性である。
 多くの人に認めてもらえるというのは、そこに芸術性があるからではなく、別の基準があるからである。お金になるとか、話題性があるとか、権威性があるからとか。そういう「わかりやすい基準」がなければ、生き方も価値観も趣味嗜好もバラバラの集団を、1つのものに夢中にさせることなどできはしない。もしくはそのように見せかけることだって難しい。

 だから、集団で作られた芸術(あらゆるもの。いわゆる芸術作品というイメージのものとは限らない)には、芸術性はない。というよりも、自ずから宿るのではなく、見出されることはある、という程度に落ち着くのだと言える。個人で作られた、もしくは個人色の強い制作過程で生まれた芸術の方が、ずっとずっと芸術性が高い。

 ここで勘違いしてはならないのは、これは、どちらが優れているかの話ではないということだ。芸術という言葉を用いているから、芸術性が高い方が有用だと思えてしまうかもしれない。でもそうではなく、個人制作と集団制作は目的が異なるということでしかないのである。
 個人制作は、その個人の持つ芸術性の表現を最大限に行える方法であるし、一方で集団制作とは、芸術の必ずしも芸術性によらない価値を、安定して出力するための方法なのだ。

 そういう方法論の違いとして、個人による芸術と集団による芸術をわけておくことこそが有益だ。優劣を語ることではなく。良し悪しを言い表すのではなく。個人と集団というアプローチが、芸術というものにもたらす結末の先を、私達は、それを作る側にしても受け取る側にしても、考えられるはずなのである。
 そうでなければ、個人制作に集団制作の常識や結末を求めたり、集団制作に個人制作の当たり前を当てはめようとしたりして、その芸術は、総じて上手くいかなくなってしまう。

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