盛り上がりすぎ病に「続けること」を強いられる
何かが爆発的に有名になり、誰もが知るところとなる。みんながそれを当然のこととして、共通の話題に上がる。いつでもそれは気にされて、情報の更新はチェックされ続ける。
流行りだ。
流行りのきっかけが偶然にせよ必然にせよ、現代では「爆発」はもう爆発的ではない。なぜなら情報の爆発は日常茶飯事で、もはや驚くべきことではないからだ。何事かが世間でもてはやされることに、私達は慣れてしまった。
だからもう、そんな爆発力だけでは物足りなさすら感じる。そのために、ただ爆発するのではなく、その次を求めるようになる。それはつまり、さらなる爆発であり、魅力であり、興味が惹かれ続けることである。
爆発力はそれとしてすごいことだが、現代ではむしろ、継続力のほうがもてはやされることになる。私達が簡単に熱狂してしまうこと、そして私達を熱狂させる仕組みが整いすぎているからこそ、熱狂は日常化している。
機械化された熱狂ゆえに、それはもう提供されて当たり前のものだ。だからこそ、熱狂は一時的なものどあるという当然をこえて、もっと継続的なものが求められている。
私達は継続性を求めているのだ。それが続くこと。たとえその道が困難を極めるとしても、たった1度の盛り上がりではもう納得しない。いくらでも、その次、次、次を求めていく。不可能でも。現実的でなくとも。
むしろ、現実的でないからこそ、さらなる熱狂を求めてそうするのだろう。今や何かが流行ることは当たり前で現実だ。だからその流行りの現実の向こう側にある、引き続いていく流行りを、爆発を、熱狂させてくれるものを、私達は期待している。
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