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はじめての古文書学習(3) 番外編「神輿を担ぐ ~北海道神宮例祭神輿渡御のご奉仕体験記~」 吉成秀夫

毎年6月14日から16日は北海道神宮例祭、いわゆる「札幌まつり」だ。
北海道神宮と中島公園では金魚すくい、わたあめ、ホットドッグ、くじ引きなどの露店がならび、華やかな浴衣を着た人、カップル、友人同士、家族連れなどが水風船をぶらさげるなどして賑わいを見せる。札幌まつりがはじまると、いよいよ北海道にも夏がくるという気分がしぜんと高まる。
まつりの最終日は御神輿だ。
笛や太鼓を鳴らしながら御神輿が山車と共に札幌市内をぐるりと巡り、北海道神宮から頓宮神社までの間を往復する。「神輿渡御」(みこしとぎょ)である。
その神輿渡御に、私はことしはじめて参加した。
それはじつに想像を絶する体験だった。
黄色い衣裳に身をつつみ神輿を担いで丸一日、14kmもの距離を歩いた。万歩計は4万歩を超えていた。筋肉痛は二日間つづいた。
 
このウェブマガジン「やまかわうみ」のメインテーマは民俗学と郷土史であることから、今回私は「北海道の御神輿体験」についてレポートをしたい。
北海道史に深くかかわるテーマではあるのだが、肝心の古文書解読のテーマから離れてしまうことをお許し願いたい。
 
人口減少時代の御神輿 
小学校の低学年のとき、はっぴにはちまきで御神輿を担いだ写真が残っている。故郷の「こどもみこし」だ。写真は昭和60年以前のものだろう。北海道の東、知床半島の付け根にある小さな農業の町、清里町のお祭りでのものだ。わっしょい、わっしょいという掛け声とともに神輿を上下に揺らして歩いたのを覚えている。
 
このたび一緒に同じ神輿を担いだ人から聞いて驚いたのは、地方のお祭りが人手不足で、そのため札幌の宮司さんが地方へ行って祭祀を執り行うばかりでなく、御神輿の担ぎ手も札幌から人が行っているのだそうだ。
御神輿担ぎにも地方色があることを、その人から聞かせてもらった。まさか人手不足が地域のお祭りにまで及んでいるとは思わなかった。そのうち外国人の人たちが中心になってお祭りを維持していく自治体が増えてくるのではないだろうか。新しい時代の足音を感じる。

私がなぜ御神輿を担ぐことになったのかというと、友人に誘われたからである。その友人は網走南ヶ丘高校時代の同級生で、ワンダーフォーゲル部の部長だった。私はおなじくワンゲルの副部長で、主にラジオの気象通報を聞いて天気図を引き、山の天気を予想する係だった。さて、その友人が昨年どういうわけか御神輿を担ぐことになり、今年になって私を誘ったのだ。
彼が言うには、君の住んでいる地域の町内会の人たちがおおく御神輿に参加しているのだし、それに君もワンゲル出身なのだから歩くのは得意だろうということだった。ワンゲル出身といってももう30年も前のことだが、そう言われると妙にプライドをくすぐられて、御神輿くらい造作もないと気楽に引き受けてしまった。報酬の無いボランティア(奉仕活動)であるのも決め手だった。たとえ小さな古書店であっても、経営者であるからにはなにかしら地域貢献の活動をしたいと思っていた。そんな私にはもってこいの機会だった。

 神輿のご利益
「御神輿ってのはね、つまり神社、そうねえ御神体の乗物なんですよ。今流にいえば、さしずめ御神体の自動車ってとこだよね。昔は、乗物に輿(こし)ってのがあったでしょう。それで御神体の輿ってことから、御神輿というよび名がでたんですよ。だから、御神輿は御神体を移動するのに使ったもんで、形としてはお宮のミニ版としてできてんだよね」
 
こう語るのは、御神輿を造る職人「御神輿司」である伊豆守則直の六代目、赤穂新太郎(あこうしんたろう)さんだ。吉羽和夫著『最後の職人 御神輿師 六代目伊豆守則直の技と道具』(河出書房新社1986)のp.86から引用させていただいた。御神輿を造る専門の職人がいたことをこの本で知った。北海道神宮(昭和39年以前の名称は「札幌神社」)の最初の神輿は木曽の檜を使い、札幌の宮大工二人で作り上げている。白木の立派なものだったらしい。
私はうかつにも、御神輿にはそれぞれ神様が乗っているということを知らずにいた。正直に告白すると、山車(だし)と神輿(みこし)の区別もついていなかった。
『さっぽろ文庫68 札幌まつり』によれば、山車とは、祭礼の時、いろいろな飾り物をして笛や、太鼓で祭の気分を盛り上げる車、または屋台のことで、明治11年のはじめての御神輿の時に、薄野の藝娼妓や常磐津連中、鳴り物などの二台の山車が出て渡御を彩ったらしい。ついでに言えば明治10年代の『朝野新聞』の記事には、札幌神社(現在の北海道神宮)大祭の時は、競馬並びにアイヌ踊りの興行があったと報じられているらしい。
沿道で神輿渡御を見守る人たちのなかには「ご利益がある」といって、御神輿に触ってくる人や、こちらに向かって手を合わせて拝む人が大勢いた。もちろん私にではなく御神輿に拝んでいるのだが、それでもこちらの方に拝んで頭を下げるのだから、妙な気持になってくる。生きている間にこんなに大勢の人に拝まれるとは思いもしなかった。
さて、神輿を担ぐ人のことを「輿丁」(よてい)というらしい。じっさいの現場では「輿丁」と呼ばれることはなく、「第三鳳輦のみなさん」あるいは「奉仕員のみなさん」と呼ばれることが多かった。鳳輦(ほうれん)とは屋根の上に鳳凰が乗った御神輿のこと。私が担いだのはその第三番目だから「第三鳳輦」。今後「鳳輦」という言葉が出てきたら御神輿のことである。
 
精進潔斎
事前に郵送配布された「令和六年度 御鳳輦奉仕員(輿丁)奉仕要項」には、「渡御奉仕心得」が書き記されていた。「古来より祭祀に当たるものは、沐浴して身体を清め、衣服を改め、飲酒を謹み、思念・行為を正しくし、汚穢・不浄等に触れてはならない。当日は手水をして清めること。」と赤い字で強調されている。
汚穢・不浄が一体何のことなのかわからないのだが、前日の夜は飲酒せずに体調を整えていた。そこに私を御神輿に誘った友人から電話が来た。いわく、去年参加したときは素足に直接足袋を履いて歩いたために、足の裏がすれて皮が剝けてひどい目にあった。だから今年はクッションとして白い足袋靴下を準備した。君の分も買っておいたから明日使ってくれ、ということだった。
去年は足裏の皮が剥けた? 初耳の情報である。
 
当日の集合時間は午前7時。いつもより早起きをして、徒歩で北海道神宮へ向かった。集合場所の養心館道場に向かうと、窓から剣道の防具が並んでいるのが見えた。どうやらふだんは剣道の道場になっているらしい。私は中学生前後の3~4年間剣道部だったことを思い出し、懐かしい気持ちになった。道場に入るとすぐに輿丁装束一式を着装する。平礼帽子、黄衣(おおえ)、くくり袴、赤半襦袢、すね当て、白下足袋、裲襠をひとつひとつ教わりながら身に着けてゆく。着装後は支給されたおにぎりを食べて、本殿へ移動。「心得」のとおり手水で手をあらい、口をゆすぐ。午前8時、発輦祭として祝詞が奏上され、お祓いをうける。なかでは神饌が供えられ、幣帛という品を奉献する儀式が行われているらしい。8時30分、いよいよ御神輿の出発だ。
私は第三鳳輦を担ぐ。私は前方左の内側、神輿の台輪のすぐ脇の位置を与えられた。名簿では25名のところ2名休みの23名での渡御である。内1名は日本語が得意でないアメリカ人だった。倶知安出身という人はいま茨城に住んでいて神輿のために札幌に戻って来たと言っていた。琴似から来た人は本州の出身で札幌の職場に配属されたために参加することになったと言っていた。ほかの人たちも札幌市内各区から来ていて、私の住んでいる町内会の人が特に多く集まっているわけではないらしい。鳳輦4基の内、他の1基は中央卸売市場の人たちの集まりのようだった。4基分を合わせると輿丁だけで約100名が参加していることになる。

御神輿の出発 
御神輿は最初、本殿のなかにある。本殿から第一鳥居のまでの参道は砂利道だ。砂利道をすぎて第一鳥居をくぐり階段を降りると、コンクリートの市道にでる。そこまでくると御神輿を台車にのせて移動することができる。きついのは本殿から第一鳥居の階段を降りるまでで、そのあいだは実際に御神輿を担いで移動しなければならない。
本殿と正門の二カ所は天井が低いので、そのままいくと御神輿がぶつかってしまう。御神輿の屋根の上には金色に輝く鳳凰がある。この鳳凰の頭がぶつからないよう、地面すれすれの低さまで御神輿をさげなければならない。これが最初の難関だ。全員で身をかがめて、かなり無理な姿勢になって重い御神輿を持ちながら敷居をまたいだ。それが過ぎると、参道の砂利道を一気に進む。御神輿が想像以上に重い。肩にミシミシと木が食い込み、腰痛が悪化しそうだ。歯をくいしばって肩の激痛と重量に耐え、なんとか通過することができた。階段下の台車に御神輿を載せて、ほっと一息ついていると、ベテランらしき人が声をかけてくれた。思っていた以上に重くてびっくりしましたと私が言うと、腕や肩で担ぐのじゃなくて、もっと首の後ろの肩甲骨全体で担いだら楽になるよとアドバイスをしてくれた。
北海道神宮を出発した神輿渡御は、街をめぐり、頓宮神社、三越デパート前を経由して、夕方にはまたここに戻ってくる。そのときは再び人力で担いで本殿まで運ばなければならない。つぎこそは必ず肩甲骨で担ごうと思った。

北海道神宮では御神輿は全部で四基あり、私が担いだ第三鳳輦に乗っている祭神は少彦名神だった。ほかの御神輿にはそれぞれ大国魂神、大那牟遅神、それに明治天皇が神として乗っている。
もともと明治二年(1869年)に明治天皇の勅により創祀し札幌神社と呼ばれた時代は、開拓三神である大国魂神(北海道の国土の神)、大那牟遅神(国土、国土経営、開拓の神)、少彦名神(国土経営、医薬・酒造の神)の三柱を祀っていた。昭和39年(1964年)に明治天皇を増祀して四柱となり、名称も現在の「北海道神宮」に改まった。今年がちょうど60年目にあたり、「明治天皇御増祀六十年」の特別の祝詞が奏上されたらしい。北海道神宮のおこりは明治二年。それ以前はここが蝦夷地だったことがあらためて思い出される。

平成5年の神輿渡御
 平成5年の札幌まつり神輿渡御のくわしい様子が写真付きで『さっぽろ文庫68 札幌まつり』(平成6年、札幌市・札幌市教育委員会刊)に載っている。グラビアページが充実していて、御神輿のルート、行列の俯瞰写真、まつりの支度の様子、行事、露店、まつりを支える人たち、渡御の様子の写真が満載だ。惜しむらくはp18~p19にかけての着装の写真とキャプションが入れ替わってしまっている。18頁のキャプションは19頁の写真に付されるべきであり、19頁のキャプションは18頁の写真に付されるはずべきものである。
平成5年の渡御の順路を見てみよう。札幌に土地勘のある人は、近過去への懐かしい歴史トラベラーになったつもりで読んでみて欲しい。札幌に土地勘のない人は飛ばし読みしてください。
この年の神輿渡御は、神宮を出発して南4条を進み、南5西4「マツザカヤ」(=松坂屋デパート。現在のココノススキノ)を南下、中島公園の札幌パークホテルを東におれて南大橋で豊平川を渡り、豊平小学校で小休止、じょうてつ、36号線から大門通を菊水へ抜けて、一条大橋でふたたび豊平川を渡って頓宮に到着。昼食をとり、午後は南3西3の千秋庵から北上し、北3西3まで五番館(むかしの西武)までいき、市役所をまわるとそこから南大通を一気に西へ、北海道神宮に戻るコースだったようだ。
 令和6年の今年のコースは写真を載せておこう。


維新勤王隊銃士隊と明治天皇
神輿渡御の行列は、まず礼服の人が乗ったオープンカーが行く。かつては人力車に乗っていたらしいが、人力車の担い手不足で車になったらしい。それから太鼓の音が最初に鳴り渡る。つぎに馬車に乗った車がいく。
ここからが印象深いのだが、そのうしろを「維新勤王隊銃士隊」と呼ばれる、戊辰戦争の時代劇などでみかける兵隊の恰好をした人たちが、日の丸の旗などを掲げて、笛太鼓を鳴らしながら進む。そのようすは、まるで幕末維新の戊辰戦争のパレードのようだ。天狗のお面をかぶった猿田彦命がそれに続く。猿田彦命のあとを先乗童子と呼ばれる子供が人力車に引かれていき、そのあとを数組の親子が続く。
平成5年の行列を俯瞰で撮った『さっぽろ文庫68 札幌まつり』のグラビア写真によれば、先乗童子のあとを五組以上の親子が乗る「稚児車」が進むことになっているが、私が参加した令和6年の渡御では見かけなかった。
猿田彦命のあとは大錦旗と太鼓、大真榊、神職、神名旗ほかが続く。たしかに大きな旗はみかけたが、榊はあっただろうか? 私にはむしろ賽銭箱をもった人たちが私たちの神輿の前を歩いていて、渋滞するとしばしば前の人にぶつかりそうになったことばかりが印象に残っている。
つぎにいよいよ神輿が進む。まず明治天皇の神輿=第四鳳輦だ。その後にはまた神様の名前が書かかれた旗があり、私たちが担いだ少彦名神の神輿=第三鳳輦がゆく。神職、御楯、比礼鉾、菅翳がつづき、大那牟遅神の神輿=第二鳳輦、大国魂神の神輿=第一鳳輦が渡御をする。その後ろは、菅蓋、宮司車、供奉委員、手古舞と太鼓があり、あとは札幌市内各地区の祭典区ごとの山車が進んだ。じつに1000人規模の大行列だ。
 
福島ルーツの北海道民
神幸祭とは、神霊が本社より他所に渡御されることを御幸(みゆき)と称し、その祭典のことを言う。「神幸祭には、もと神を迎えた古儀により毎年これを繰り返すもの、歴史の事実、祭神の事蹟をかたどるもの、疫病消除の神事が恒例化したもの、神を慰める趣旨で行うもの、祭神縁故の地または氏子区域に渡御されるものなど種々に分けられる」とは、たびたび引き合いにだしている『さっぽろ文庫68 札幌まつり』p122からの引用である。
くり返しになるが、日の丸、維新勤王銃士隊、明治天皇の並びを見ると、どうしても幕末の戊辰戦争を彷彿とさせる。上記の説明のうち「歴史の事実」にあたるだろうか。維新勤王隊の創設は大正15年。この年に敬神講社が発足し、年番が第一区であったことからそれを記念して、京都の平安神宮の祭典に奉仕する維新勤王隊を札幌でも構成することとし、京都の楽士の指導者四人を招いて練習を重ね、同年の神輿渡御行列の先駆として奉仕したのがはじまりだという。勤王隊の兵士は各祭典区にそれぞれ人数を定めて割り当て、隊長、司令はじめ50人が、楽士の後につき従うという説明が『北海道神宮史 上巻』(平成3年発行、北海道神宮刊、p.377)にある。
私の父は福島県からの移民の子なので、もし戊辰戦争に積極的にかかわっていたならば賊軍の子孫にあたるだろう。いわゆる負け組だ。明治の御一新から150年以上を経たいま、かつての官軍と賊軍の隔てなく、さらには外国人も加わって、こうして皆が一緒になって北海道の神輿渡御をする時代になったのだと実感する。
昭和39年、明治天皇が北海道神宮に鎮座するにあたり、神宮祭主北白川房子様と東久邇聡子様はそれぞれ次の歌を寄せている。
 
北国の守りの神としづまりて
  弥遠ながに栄えますらむ
 
いきまつる神のまもりにえぞがしま
  いや遠永く栄えゆかなむ
 
『北海道神宮史 下巻』平成7年発行、北海道神宮刊、p.517より
 
見送られる行列で
親と家族が見に来てくれた。神輿渡御の行列のなかから私を見つけて、喜んで手を振りながら見送っている。私は行列から抜け出して、笑顔の子供たちとハイタッチをしたいのを我慢した。家族が見にきてくれても行列から離れて会いに行くことはできない。行列のなかにいると、沿道で見送る人たちの世界と隔絶している気分が湧いてくる。行列の内側から沿道で見送る人たちを見ると、こういう気分になるのか、見送られるというのはこういう気分なのかと、変な感覚なのだが、もし私が死んだときの葬式は、涙で見送られるのでなく、このような満面の元気な笑顔で送られたいなと思った。
神輿渡御のあいだ、たくさんのスマホやテレビなどおおくのカメラを向けられた。こんなにたくさんの写真を撮られたことはいままでの人生で一度も経験がない。ふと戦時中に徴兵されて家族に見送られながら行列を歩いた兵隊さんを想像して、複雑な気持ちになった。第二次世界大戦終戦から数えると来年で80年になる。
戊辰戦争と世界戦争。神輿渡御の奉仕をしながら、そのような戦争の歴史が私の体を通っていくのを不意に感じた。この感じはとりもなおさず北海道の精神史の一部であるのにちがいない。行列を進む私の体の内側に、幕末から戦後の歴史が一気に沸き起こり、そのような過去のすべてが神輿を担ぎ未来へ進む私たちの歩みをむしろ励ましてくれるような、そんな不思議な感じを覚えたのだった。
 
大雨のなかの神輿渡御
渡御の日、天気はすぐれなかった。曇り空がつづき、たびたび雷鳴が鳴り響き、午前に一度雨がふった。どこからか、今年は涼しいから良いな、去年は暑くてたまらなかったという声が聞こえる。ちょうどお昼ごろ、頓宮に神輿を駐めて、電気会館に移動して昼食の仕出しを食べる。すでに結構足が痛くなっていて、歩くのに不自由を感じた。昼食を終え、午後の順路につく。休んだあとのエンジンがかかるまで足がつらい。真宗大谷派の東本願寺に着くころには本格的に稲妻が光り出し、雷のとどろく音が聞こえてきた。雷は神鳴りとも言う。この土地の自然にすむ神々が天地開闢の雷の音とともにお祭りを楽しもうとしているように私には思われた。空がだんだん暗くなっていく。中島公園から駅前通りを北に向かって進むうち、ついに大雨となった。恵みの雨というには勢いが強すぎる。そんなざんざ降りの大雨になっても札幌市中心部の沿道には人が途切れることがなかった。信仰の厚い人もいれば、渡御の参加者の関係者もいたのだろう。大雨のなかで神輿渡御を見守る人が多いという事実は、それほど信心深くない私を驚かせるのに十分だった。
三越前の西4丁目交差点でおこなわれる駐輦祭は、輿丁の私たちにとって最後の休憩時間である。私は友人と二人ですぐさま三越の階段を降り、休憩できそうなイスを探した。三越の案内コーナーの人に、どこかベンチはありませんかと尋ねると、エレベーター横やエスカレーター横にありますよと教えてくれた。そのときにも、御神輿お疲れ様です、ありがとうございますと感謝され、手を合わせて拝まれた。神輿渡御は地域の人たちに感謝されていると実感した。
エスカレーター横のベンチは、すぐとなりが千秋庵で、おやきや「巴里銅鑼」というスイーツどらやきが並んでいた。疲れた体は甘いものを欲していた。「巴里銅鑼」ゆず味は、夏季限定商品だという。たまらず買って食べることにしたのだが、その会計のときにもレジの人は「御神輿お疲れ様です。雨が降って大変ですね。残りもがんばってください」と声をかけてくれた。「巴里銅鑼」ゆず味はとても美味しかった。
ベンチで休んでいると西洋風の外国人女性に「May I take your photo?」と声をかけられた。「OK !」と言って、装束の乱れを直し、カメラに向き合った。女性は写真を撮ったあとで「Are you a buddist?」と聞いてきた。仏教徒だと思ったらしい。「No, I’m not a buddist. This is a shrine festival costume.」とこたえると「Oh, festival」と言って去っていった。
西4丁目交差点に行くと、雨の勢いはさらに増していた。雨除けにビニールポンチョをかぶった。それで思い出したのが、消防の防火服だ。アイヌ語地名研究会の古文書解読会ではいま、松前藩の勤番日記を読みすすめているのだが、そのなかで防火服を紛失するという話が載っている。その防火服とは江戸時代から今も変わらず、頭からすっぽりかぶるおなじみの形をしているという。そういえば、防火服はポンチョにそっくりだ。
どしゃぶりの雨の中、神輿渡御の一行はみなビニールポンチョをかぶって、南大通を一路西へ、円山の北海道神宮へ還ってゆくのだった。

【執筆者プロフィール】
吉成秀夫(よしなり・ひでお)
1977年、北海道生まれ。札幌大学にて山口昌男に師事。2007年に書肆吉成を開業、店主。『アフンルパル通信』を14号まで刊行。2020年から2021年まで吉増剛造とマリリアの映像詩「gozo’s DOMUS」を編集・配信。2022年よりアイヌ語地名研究会古文書部会にて北海道史と古文書解読を学習中。
主な執筆は、「山口昌男先生のギフト」『ユリイカ 2013年6月号』青土社、「始原の声」『現代詩手帖 2024年4月号』思潮社、共著に「DOMUSの時間」吉増剛造著『DOMUS X』コトニ社など。


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