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【日記】「選んだ道を正解にする」思考の危うさ、たまには後ろ向きに。

 
「『正解の道』なんてものは存在しない。自分が選んだ道を『正解』にするしかないんだ」という考え方がある。ビジネス書などでもときどき見かけるやつだ。一般社会で成功する人というのは、得てしてこういう哲学を持っていたりする。現状を正解にする力。自分が選んだものを肯定し、行動し、まわりにも「あのときはどうなることかと思ったけど、なんだかんだ、あの道を選んだのが成果につながったよね」と認めさせる、その勢い。
 選んだ道を正解にする力。
 わたしも以前は、その考え方を大事にしていた。一度失敗しても、その後、成功すれば、それは「失敗」だったことにならない。「成功の一部」になるのだ——と。
 けれど31歳になったいま、たくさんの失敗を繰り返してきて思うのは、成功の一部でもなんでもない、ただの「失敗」も存在する、ということだ。なんの糧にもならない、次につながったりもしない、純粋無垢な、救いようのない「失敗」だってある。むしろ、その「失敗」をなんとか活かそうとあがけばあがくほど密度を増し、気がつけば巨大な台風みたいになって、そこらじゅうに失敗の雨粒をびちゃびちゃと撒き散らす、小雨のうちにおさえときゃこんな大惨事にならなかったのに! そういうタイプの失敗もあるのだ。

「選んだ道を正解にする」スタイルで突き進んでいたとき(だいぶ若かった)、わたしはどこかで、大きな矛盾に気がついたのだった。「わたしはこういう生き方をしたい」と思いながら、それを叶えるための道を選んでいたはずなのに、選んだ道を肯定するための選択を重ねれば重ねるほど、どんどん、本来わたしがなりたかった人間像とは、かけ離れていってしまう。
 たとえば仮に、恋人と喧嘩になったとする。わたしはもっとこうしてほしい。恋人は、そのリクエストに応えられない。お互いに主張が違う。ここには分岐点がある。わたしの道と、恋人の道。意見をすり合わせることもできず、「別れる」という選択をしたとする。
 するとわたしは「別れてよかった」と言えるようになるための素材集めをしてしまう。無意識にでも。もっといい相手を探そうとしたり、自分磨きをがんばったり。過去にした選択を正解にするための根拠集めが、ポジティブにおこなわれるのならまったく問題ないけれど、危ういのは、相手を蹴落とそうとしたり、相手がうまくいきませんようにと願ったり——ネガティブな行動が正義化してしまう場合だ。
 自分が選んだ道が「正解」だとするなら、相手が選んだ道は「不正解」でなければおかしい。
 だったら、「不正解」である相手に「正解」を教えてあげるのは、むしろ正しい行動なんじゃないか? そんなふうに。妙な正義感で相手を屈服させようとする。相手の失敗を願うなんて、それこそ時間のムダだ。

 ちょっと抽象的な話になっちゃったけど、まあ、そんなようなことが、わたしにはけっこう、あったんですよね。恋愛でも仕事でも人間関係でも、家族のことでも。気がついたら、選んだ道を正解にするためのポジティブなステップアップよりも、自分とは違う選択をとった人が”うまくいかない理由”を必死に探すことのほうに躍起になったりしてさ。
 とにかく、「間違っていたのは自分だった」と認めたくなかった。認めなくてもいいように行動して、次から次へと、ネガティブな行動をとるようになって。自分が嫌いになるようなことばかりするようになって。
 でも、それってただの辻褄合わせだ。自分を安心させるための証拠集め。こんなことをずっと続けてたら、自分にとってほんとうに「正解」だと思うものが、見つけられなくなってしまう。わたしは、「前にこれを選んだんだから、今回もこっちを選ばないとおかしい」とかじゃなくて、そういうの抜きにして、「選びたいものを選ぶ」人生がいい。これ以上、自分の目が曇るのはいやだ!
 ……と、そんなことを思ったのだった。
 そこで、よし、まずは「わたしが間違っていた」と認めよう、と思った。この件と、この件。それからあの件。間違っていたのはわたし。「あんな言い方するならさ、もっとこうしてくれたらよかったのにね」とか、わたしのために、わたしを擁護する言葉を言ってくれた友達もいたけれど、でも冷静に考えると、やっぱりわたしが悪かったことだって、たくさんあった。あれはわたしの失敗なのだ。
 しかしそれを認めるのには、やっぱりというべきか、きりきりとした強烈な痛みが伴った。比喩じゃなくて、本当に痛むのだ、みぞおちのちょうど中心のあたりが。胸がどくどくと動いて、痛くなる。だって、間違っていたことを一度認めてしまったら、これまで必死に「辻褄合わせ」してきた努力が、全部水の泡だ。あれも、これも。だったらあれは? 今まで積み重ねてきた選択が全部「間違っていた」ことになるなら、いっそ、ちょっとした罪悪感や違和感なんて無視して、このまま我が道を突き進んでしまった方が、楽なのでは?
「選んだ道を正解にする」思考には、ある種、こういう危うさがあるのだと思う。
 後戻りできない、怖さ。
 失敗してもそれを認められないまま、失敗をフォローするためにしたことがまた失敗したりして、失敗の大きさだけがどんどん膨れ上がっていく怖さ。
 だからわたしは、二つの分岐点で迷い、迷い抜いた末にどちらか一方の道を選んだとしても、もしまた「なんか変かも」と思ったら、Y字路までちゃんと戻る力がほしい。
 前を向き、ぐんぐん進むその姿は、たしかにかっこよく見える。追いかけたくなる。そういう生き方に憧れることが、わたしにもある。
 けれど”後ろ向き”に進み、もといた場所に戻る。
 それだって立派な、一つの勇気なのだ。
 

 
 



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