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【小説『元カレごはん埋葬委員会』】第1話:元カレが好きだったバターチキンカレー「あなたに好かれる女のふり」

 女をふる場所に、よりにもよってラブホを選ばなくたっていいでしょうが、ばかー!
 渋谷のラブホテルのベッドの中で、私は嗚咽をこらえるのに必死だった。
 本音を言えば、もっとちゃんと大声で泣きたかった。おーいおいおいという文字が口から飛び出てくるくらいわかりやすく泣きたかったけれど、唇を噛み締めて我慢した。これは最後の意地なのだ。
 なぜなら、人ひとりぶん開けたすぐ隣に、ついさっき私をふったばかりの憎たらしい男——高梨恭平が、寝ていたからだ。
 背を向けているから顔は見えないけれど、もしかしたらまだ起きているかもしれない。こんなに泣くほど俺のことが好きだったんだ……ゴメンな、なんて、死んでも思わせたくなかった。
 枕元の充電ケーブルを頼りにスマホを手繰り寄せ、ベッドの中で時間を確認する。泣きすぎてむくんだ目に、ブルーライトの光が痛い。もう深夜二時だ。ベッドに入って三十分は経ったはずなのに眠気はまったくやってこず、その代わり、涙と鼻水ばかりがこんこんと湧き出てくる。
 彼に気づかれないよう、スマホをそっとベッドサイドに戻そうとしたとき、ふと、小さなビニールに指先が触れた。
 未使用のコンドーム。ああ、彼は「そのつもり」だったのかな。ちゃんと準備を、してくれてたのかな。きっと、まだ可能性はあった。あったのに。
 そう思うと余計に、悔しさなのか、情けなさなのかよくわからない感情が湧き上がってきて、また涙が出た。別に、したくてたまらなかったわけじゃない。ただ……。ただ。

 この人と結婚するつもりだった。この人しかいないと思っていた。そんな四年間の恋はひどくあっけなく、みっともなく、だだっ広いホテルのベッドの上に散らばって消えた。
 あれ、失恋って、こんなにつらいんでしたっけ?



 スパイスの、においがする——。
 そういえば、バターチキンカレー三杯も食べてたこと、あったな。あのカレー、「恭平カレー」とか名付けてたのにさ。もう作れなくなっちゃうじゃん……。
 カレー。
「カレー!?」
 はっと目が覚めると、木目のテーブルが目に入った。お尻の下には、ふかふかしたソファ。どうやら、突っ伏して寝てしまっていたらしい。
「うっ、いった……」
 頭が重い。がんがんする。石臼の中に頭を入れてすり潰されているみたいだ。目も霞む。まぶたに触ると、マスカラのカスがぼろぼろとこぼれ落ちた。
 っていうか……ここ、どこ?
 見覚えのない場所だ。喫茶店だろうか。アンティークの鳩時計に、小さなテレビ。飾り棚には、コーヒーカップや本、スノードーム、骨董品などがずらりと並んでいる。それと、古い建物独特の埃っぽい匂いにほんのりと混ざる、スパイスの香り。
 店内を見回す。お客さんは……私のほかに一人だけ。カウンターに四席、ソファ席が八席。小さなお店だ。
「あ、起きてる」
 背後から、澄んだ男の人の声がした。ズキズキと痛む頭を支えながら上半身を起こす。
「すいません私、ちょっと記憶が飛……うっわめっちゃイケメン! あ、声出ちゃった」
 直角三角形の定規みたいにきりっととがった鼻に、ぱっちりとした二重の目。遠心顔でも求心顔でもない、完璧なバランス。世の中のありとあらゆるイケメンを集めて、それを抽象化したらきっと彼になるような、見事な美形男子だった。ネイビーのセーターが、白い肌によく似合っている。
「あっはは。それ、さっきもまったく同じこと言ってたよ。イケメン! って」
「え!? 私がですか?」
「うん。そっか、本当に覚えてないんだね」
 まったく思い出せなかった。たしか、朝の八時にホテルを出て、恭平と別れて……。そうだ、そのあと電車に乗ろうとしたら、幸せそうなカップルが多すぎて逃げたのだ。恭平と出かけるつもりで今日は休みを取っていたし、家に帰ってもすることがない。だったらいっそ記憶が飛ぶまで飲んでしまおうと、二十四時間営業の居酒屋に入って焼酎のロックを一気飲みした……ところまでは、覚えている。
 はっとして、ポケットからスマホを出す。
「えっ、なんで!? 割れてる!」
「それも、まったく同じ反応してたよ」
 まっ、まぶしい。お兄さんの爽やかすぎる笑い声が、アルコールでやられた頭に沁みる。生まれる時代が違えば、言い伝えになりそうなほどかっこいい笑顔だった。「東洋の秘宝」とか呼ばれて、壁画にされるのだ。
 バキバキにひび割れたスマホをタップする。よかった、壊れてはいないみたいだ。時刻は十二時。十二時!? やばい。空白の時間が長すぎる。
「すいません、ここって……どこ、ですかね?」
「三軒茶屋だけど?」
「さ……三軒茶屋!?」
 思わず立ち上がって、店の外に出る。
「ちょっとお客さん、どこ行くの?」
 まったく見覚えのない住宅街だった。近くの電信柱の広告を見ると、たしかに「世田谷区太子堂」と書いてある。
 うそ、ってことは私、渋谷から三軒茶屋まで歩いてきたってこと!? どうりで、足の裏がやたら痛いはずだ。今さら、自分が全身ズタボロなことに気づく。ワンピースには醤油のしみが小さじ一杯分くらいつき、タイツは太ももからつま先まで伝線している。擦りむいた膝小僧にはハローキティの絆創膏が貼られていた(もちろん記憶にない)。デートのために奮発して買った三万九千八百円のパンプスも、ヒールが極端にすり減っている。
 それにしても、飲み屋でもないのにどうしてここに入ろうとしたんだろう。あらためて、店を振り返る。
 喫茶「雨宿り」。
 それが、この店の名前だった。が、外観は、豪雨でも来ようものならいかにも雨漏りしそうな、くたびれた雰囲気だ。日除けテントに印刷された「雨宿り」の文字はかすれて読みづらく、ドアもステップも、すべてが色あせていた。その疲弊しきった壁を見ていると、薄ぼんやりと、鹿児島の田舎のひいじいちゃんの、しみだらけの皮膚が脳裏に浮かんだ。店の前のスタンド看板には、チョーク文字で「一番人気! カレーランチ一〇〇〇円」と書かれている。ああ、だからスパイスの匂いがしてたのか。
「『今の私が入っても許されるのは、こういう店だけなんだよ!』って叫びながら入ってきたんだよ」
 さっきのイケメンが、ドアから出てきて説明してくれる。
「『イケメン大将、ビールお願いします!』ってすっごい楽しそうにしてたけど、一口飲んだだけで突っ伏して寝ちゃったの。まあ、どうせお客さんも来ないし、別にいっかなー、と思って寝かしといたけど」
「も、も、申し訳……!」
 やっちまったー‼ 酔っ払って押しかけた挙句、居酒屋と勘違いするなんて。
「ごめんなさい本当にごめんなさい! うっ、きもちわる……」
「あーあー、まだだめだよ、そんな頭揺らしちゃ。もうちょっと休みな?」
 国宝級のイケメンに優しくしてもらえるなんて、こんな状況じゃなければ最高にテンションが上がるところだけれど、今のこんな状況じゃむしろ、自分のみじめさが際立つ。穴があったら入りたいとは、こういうことか……。

「何か胃に入れたほうがいいよ。ちょっと待ってて、今準備するから」
「すいません……なにからなにまで」
 イケメンは雨宮伊織さんといって、ここの店長をしているらしい。酔いが醒めて冷静になればなるほど、こんなに静かで落ち着いた雰囲気をぶち壊した事実が恐ろしくなってきた。
 カウンター席の一番端に座っているお客さんにも、ごめんなさいと心の中で土下座した。坊主頭で眼鏡をかけた、体格のいい男の人だ。作務衣を着ているところからして、お坊さんだろうか? クリームソーダとカレーを食べながら(どんな組み合わせ?)、文庫本を読んでいた。
 どんよりとした気持ち悪さを、水で一気に押し流す。おはじきみたいに溶けて平たくなった氷が、喉の奥をつうと撫でていった。
「……はあ」
 そういえば恭平、帰ったあとちゃんと水を飲んだかな。とにかく水分を取るのが苦手な人で、私が言わないと丸一日水を飲まないなんてこともざらにあった。いや、でも大丈夫か。健康診断の結果がよくなかったと聞いて登録した、コントレックスの定期便。そのストックがまだあったはずだから、とりあえずは大丈夫だろう。あ、でも一応、「ちゃんと水飲んでね」って連絡しておいたほうがいいか。
 そう思ってスマホを取り出すと、まるで見計らっていたかのように通知が鳴る。恭平だ。手のひらに伝わるバイブレーションの振動に合わせて、勢いで立ってしまう。
「あっ、すっ、すいません」
 カウンターの方から、坊主頭の男の人の視線を感じ、あわてて座り直す。
 深呼吸してから、メッセージを開いた。

〈荷物はまとめたのであとで送ります もも名義で定期で頼んでるやつもなるはやで解約しといてもらえると助かります〉

 そんな簡素なメッセージのあとに、LINEにデフォルトで入っているクマが、汗を流して俯いているスタンプが添えられていた。
「何、そのスタンプ……」
 一回も使ったことないじゃん。スタンプ、絶対使わない人だったじゃん。四年間さんざんメッセージを送り合い、LINEの傾向も全部知り尽くしていた。基本的に「!」しか使わなかったのだ。おそろいのスタンプ買おうと誘っても、恥ずかしいから嫌だと頑なで。
 そうだ。もう私に、彼の健康を心配する資格なんてない。そんなのわかってるよ。でも別れ話したの、昨日どころか、日付は今日なんだよ。で、終電がなかったから、朝まで同じベッドで寝てさ、解散したの、今朝じゃん。ついさっきじゃん。
 そんなに、別れたかった?
 別れた直後、荷物をすぐにまとめないと気が済まないほど、私のこと嫌だったわけ? 
 段ボールに入れていく最中、よりを戻そうか迷わなかった? ちっとも、一瞬も?
 その申し訳なさそうなクマのイラストが、彼の気持ちが変わらないことの何よりの証明みたいに見えて、酔いつぶれて一度は引いたはずの涙の波が、また押し寄せてくる。
「うっ……」
 泣いてもしょうがないと頭ではわかっているのに、コントロールが効かない。感情を制御するブレーキが完全に破壊されてしまったみたいだ。やばい。コーヒーカップ、トイレのマーク、窓の外の植木。視界に入るものすべてが恭平フィルターに引っかかってしまう。今ならどんなに突拍子もないものでも恭平との思い出に結びつけられそうだ。
 いや、でもだめだ。酔っ払って爆睡した上に号泣までしはじめたら完全に不審者じゃないか。店長さんに、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
 涙を我慢しようと、目をかっ開く。まばたきをすると車のワイパーのように、涙の雫をふり落としてしまう。だったら目を全開にして、涙が乾くまで待てばいい!
「……あ」
 坊主頭の人と、目が合ってしまった。私の目が怖いのかはわからないけれど、怯えている。たぶん。手に持っていた文庫本がばさっと床にすべり落ちた。
「……すいません。私、気持ち悪いですよね……」
「は?」
「はじめてのお店で酔っ払って迷惑かけたかと思えば今度はいきなり泣き出すとか、完全にやばい人ですよね……」
「い、いや。そんなことは言ってませんが」
「私、昔からこうなんです。すぐ感情的になって突っ走って……彼氏にもよく怒られました。こういうとこがあるから『重い』とか言われちゃうんですかね。どう思います?」
「僕に聞かれても……なんで座ってるんですか」
 私は、落ちた文庫本を拾うついでに、坊主さんの隣のハイチェアによじのぼった。
「昔はね、おしゃれなお店にも毎週のように連れてってくれたし、LINEも毎日くれてたし、かわいいとか好きってちゃんと言ってくれてたんですよ。でも最近は、全然言ってくれなくなって……。はじめは、仕事が大変なのかなって思いました。営業マンでノルマもあるし。でもだからこそ私が支えてあげたいって思って、作り置きを冷蔵庫に入れておいたり、なんでもない日にサプライズでコース料理をつくったり、彼のいいところを一日三つ伝えたり、努力してたんです。でもこれって、男の人にとっては迷惑なんですかね?」
「あの、もしかしてまだ酔ってます?」
 どうしよう、話しているうちにまた泣けてきた。ティッシュで目頭をおさえながら話す。
「ふっく……私がしたことは全部、ありがた迷惑で、ただキモいだけだったんですか?」
「知りませんよ。あの、雨宮さん? この方ちょっと……。雨宮さん?」
 もしかして、と私はさらに、ハンドバッグと一緒に置いていた、アニエスベーの紙袋を持ってきた。この人、お坊さんっぽい見た目ということもあって、不思議と安心感がある。この胸にわだかまっている怨念を、すべて吐き出したい気持ちになってきた。
「見てください、これ」と、私は紙袋からラッピングされた箱を取り出して見せた。
「は、はあ」
「恭平への誕生日プレゼントで用意したペアウォッチです。え、これ重いですか? ペアセットで六万七千円、重い? 奮発してカルティエとかも考えたけどあんまり高すぎると引かれちゃうかなと思って、これでも遠慮したんですよ? 四年も付き合ってたらこれくらい出しますよね? 私の感覚っておかしいのかな? 仏様はなんて言ってます?」
「お釈迦様はペアウォッチとか送らないと思いますが」
「そっか……仏様でもわからないなら、しょうがないですね……」
「……まあ、でも」
「でも?」
 坊主さんは、凛々しい眉毛を気まずそうに掻いてぼそりと言った。
「一般論で言えば、そこそこの金額で、しかもペア……というのは、重い、範囲に入るんじゃないですか」
「やっぱり!?」私は頭を掻きむしった。何が正解で、何が間違っていたのか、どんどんわからなくなってきた。いや、でも僕の意見は参考にしない方が、と坊主さんがぼそぼそと弁明しているけれど、もはやずっと遠くに聞こえる。
 私の四年間って……。
 っていうか四年どころじゃないよ。二十九年もその感覚で生きてきたのやばくない!?
「ぬわあああ……!」
「ちょっと黒田さん、お手柔らかにしてあげてよ」
 顔を上げると、店長だった。どうやらこの坊主頭の人は黒田さんというらしい。
「空きっ腹にアルコールって一番よくないからね。余り物で申し訳ないけど」
 店長はそう言って、美しい動作でお皿をテーブルに置いた。オーソドックスなチキンカレーだった。
 どくんと心臓が揺れる。また走馬灯のように映像が押し寄せてくる。しまった。カレーを食べている恭平の顔は、データが多すぎるのだ。おいしそうに頬張って膨らんだ輪郭、「今日は辛いな」と額に汗をかいていたこと、二日目のカレーを朝、食べたときの寝ぐせ……何百通りの顔を同時再生できてしまう。
「えっ、もしかして、カレー苦手だった?」
「いっ、いえ! そんなことは……。いただきます」
 そうだ、いったん落ち着け。私は自分に言い聞かせながらスプーンを握りしめた。
 ラブホでフラれた。酔っ払ってる。まだ頭もガンガンする。今の私は、冷静じゃない。冷静じゃないんだ。こういうときは、たいていろくなことにならない。就活中、記念すべき百社目の面接に落ちたとき、気がついたら携帯を捨ててインドにいて、弟が捜索願を出して大騒ぎになったこともある。パニックになった私は何をしでかすかわからないのだ。
 そうだ。結局何をしたってつらいだけなら、とりあえずマシな方を選ぼう。失恋して空腹なのと、失恋して満腹なのだったら、失恋して満腹のほうがまだマシだ。おいしいものを食べて、まずは元気を出そう。
 私はカレーとごはんをたっぷりとすくって一口で飲み込んだ。
「ムッ!?」
「どうかした?」
「いっ、いいえ。なんかちょっと、胃がびっくりしちゃってるみたいで」
 優しい店長さんの視線を誤魔化しつつ、ピッチャーから水を注いで二杯飲む。
 こ、これは。鼻に抜けるようなスパイスの香りもなく、全体的に水っぽく薄味で、カレーというよりもお湯にちょっと味をつけただけ、みたいな……。
 ……と、いうか。
 端的に言うと、ま、ず、い……?
 ああ、そういえば私も一回、大失敗したことあったなあ。恭平が来る前日から仕込んで張り切ってたのに調味料の配分を間違えて、あわてて作り直したっけ……ってだから、もう恭平のことは考えたくないって言ってんのよ! もう、私の脳止まれ! 勝手に恭平の思い出を自動再生するのやめてくれ!
「あれ、お客さん? 好みじゃなかったかな?」
「いやいやいや! おっ、おいしいです!」
「よかったあ」
 ああ〜とっさにおいしいって言っちゃった! でも無理だよ。初対面の女にあんなによくしてくれた店長さんのこの笑顔を見て、正直な意見を言えるわけが……。
 ふと左隣を見ると、さっきの、黒田さんと呼ばれていた人の手元が目に入った。クリームソーダとカレーの皿が、きれいに空になっている。
 いや、でも待てよ。この人だってさっきからずっと普通の顔でカレー食べてたじゃないか。それにさっき外で見た看板にも、「一番人気!」ってでかでかと書かれていた。ってことは、メニューとしてお客さんに出してるってことだよね?
 私は深呼吸をした。ぐるぐると回る視界と、動悸をおさえようとつとめる。
 頭に、不吉な考えがふっと浮かんだ。
 もしかしておかしいのはカレーじゃなくて、私の味覚のほうだったり、しない、よね?
 ティッシュで鼻を噛んでから、もう一度カレーを口に入れた。やっぱり変な味がする。
 うそでしょ、私どこかで味覚がおかしくなった? 私の父はかつて、地元の鹿児島で居酒屋を経営していた。私も幼い頃から店を手伝い、当たり前のように台所に立っていた。だから当然、料理には自信がある。キャベツ半分の千切りなら三十秒でできる。
 でも、そうだ。よく考えたら。
 父の店は売上が伸びなくなり、私が小学三年生の頃に潰れたのだ。
 私は料理の基礎のほとんどを、父の店で教わった。それが正しいと信じてこれまでやってきたけれど、そもそも、父の味付けがまずかったんだとしたら?
「まさか……そんな……」
 父も、その娘の私も味覚オンチで、店が潰れたのも、料理がまずかったからで。
 結果、私は、自己流でつくったカレーを自信満々で恭平に食べさせて、恭平はその圧に耐えられなくて、気をつかって「おいしい」と言ってくれてたんだと——したら?
 そう思うと、すべての辻褄が合うような気がする。
——本当は、もう、ずっと前から、俺が切り出さなきゃって思ってたんだ。でも、俺のためにがんばってる桃子の顔見たら、どうしても言い出せなくて。ごめん。
 昨夜、彼の言った言葉が、カレーの香りに混じって、じっとりとまとわりつく。
 あの「おいしい」は、本音の「おいしい」だったのかなあ。
 あの「楽しい」は、本音の「楽しい」だったのかなあ。
 あの「好き」は、本音の「好き」だったのかなあ。
 そう思うと、それが呼び水となって、だったらあれも、もしかしたらこれもと、大量の記憶がべたべたと張り付いてくる。ああ、まずい。インドに行きたい。また気を失ってしまいたい気分になってきた。
「さっきの話聞こえちゃったけど……。お客さん、失恋?」
 はっと顔を上げると、ちょうど店長が私の隣に腰掛けるところだった。長い脚を組み、優雅にコーヒーを飲む。
「雨宮さん……そんなダイレクトに」と黒田さんはたしなめるように言う。
「いや、こういうときは、他人に思いっきり吐き出したほうがいいかなーと思ってさ」
「吐き出す?」
「失恋の傷を癒してくれるのは、共感・時間・復讐、この三つしかないんだよ、結局」
 店長は、指を三本立てて言う。
「共感、時間、復讐……」
「そう。よく『時間が解決してくれる』なんていうし、ま、それもそうなんだけど。俺の経験上、自分をふった相手のこと忘れられるまで、最低でも半年くらいはかかるからね」
「は、はんとし!?」
 こんなにつらい気持ちを抱えながら、半年も生きなきゃいけないの? ますます頭が痛くなってきた。
「じゃあ、そのあいだの半年どう耐えるの? っていう話になるだろ。結局、共感してもらうしかないんだよ。しんどい気持ちと戦ってる自分を応援してくれる誰かがいるって思えてようやく、ちょっとは前を向いてもいいかなって気になるもんさ」
 店長は、頬杖をついてゆるりと笑った。
「イケメンは、言うこともイケメンなんですね……」
 優しさに、ささくれた心が少しだけ癒えていく。ここにたどり着いていなかったら、今頃私はどうしていたんだろう。家に閉じこもって一人で泣いていたのだろうか。
「あの……一度話し出したら止まらなくなりそうだし、たぶん信じられないくらい泣くと思うんですけど、いいですか」
 店長は、くすっと優しく笑う。
「どうぞ? 好きなだけ」
 ふいに、インクがにじんだような匂いがした。控えめな雨が、しとしとと降り出す。私の鼻を啜る音も、少しは誤魔化せそうだ。
 いつもは雨なんて嫌いだけれど、今日ばかりは少しだけ、ありがたいと思った。



「へえ、四年も付き合って、二十九歳でふられたの? そりゃあんだけ飲みたくもなるわ」
 店長があまりに聞き上手なので、気がつけばあれこれと身の上話をしてしまっていた。
 結城桃子、鹿児島県出身。
 飲食チェーンの会社に就職したもののブラック企業で人がどんどん辞めるため、いろんな店舗の店長をかけもちしていること。土日の休みがなかなかとれず、昨日は恭平の誕生日だからと無理やりシフトを二日こじ開けてたのに、暇になってしまったこと——。
「『忘れてた』の回数って、興味ない度に比例すると思うんです」
 カレーを無理やり流し込みながら、私は続ける。うん。味に慣れてきたら、意外といけるような気がしてきた。
「連絡、忘れてた。記念日、忘れてた。クリスマス、忘れてた。誕生日、忘れてた……」
「誕生日はきついな」
「ですよね!? ちょっとずつちょっとずつ、『忘れてた』の回数も増えて、言い訳も雑になって。いつしか、言い訳すらしなくなって」
 私の「そっか、それなら仕方ないね」の言い方もムダにうまくなって。
「でも、いいですよ。誕生日はね、仕事が忙しかったらそりゃ忘れちゃうこともある。百歩譲って許しましょう。でもいくらなんでも『正月忘れてた』はさすがにないでしょ!?」
 私は思わず、こぶしでテーブルを叩いた。そうだ。このあいだの年末年始のことだ。何度連絡してもしばらく返信が来ず、何かあったのかと心配していたら、年が明けてから「ゴメン。正月だったことに気がつかなかった」と言い訳してきやがったのだ。
「この日本に生きてて、いったいどうやったら正月を忘れられるのよ?」
「あー、たしかに、どんなに忙しくても正月を忘れることはないね……」と、店長は乾いた笑みを浮かべる。
「年末年始も夜通しずっと仕事してた、とかじゃないんですか?」
「でも彼、ツイッターで、ピザ屋のお正月キャンペーンの告知に『いいね』してたんですよ。正月そのものを忘れてたわけない」
 ガタッ、と急に黒田さんが、椅子から崩れ落ちる。
「黒田さん? どしたの?」
「いいねって……他の人でも見れるんですか?」
「普通に見れますよ」
 そう私が言うと、ずり落ちた眼鏡をかけ直し、すごい剣幕で詰め寄ってくる。
「それは……あなたが粘着質だから特別に見方を知っているとか、そういう話ですよね?」
「なにを失礼な! 誰でも普通に見れますって!」
 そう言って私は、いいね欄の見方を教えてあげた。真っ青になって震え出した黒田さんは、ぶつぶつと聞き取れない声でひとりごとを言いながら、スマホをいじり出す。
「黒田さんって……」
「ま、まあ。黒田さんのことはほっといて。それで?」
 なんだか引き攣った空気を感じるけれど、まあいい。
「とにかくそういうことが続いてたんですけど、言えなくて。昨日の恭平の誕生日に、やっとひさしぶりに外でデートできることになったんです」
 彼と会うのは、一か月ぶりだった。いいお店でディナーを食べて、彼も私もちょうどよく酔っ払った。「なんだ、いつもの私たちじゃん」とほっとした。もちろん終電は意図的に逃した。そのままの流れで、近くのホテルに泊まった。
「でも……そのあと、彼が」
 思い出すと、今でも胸の奥がキリキリと痛む。
 ホテルには、広々としたベッドが一台。私が先にお風呂に入った。念のため持ってきていたスキンケアセットで肌を整え、念のため持ってきていた下着に履き替えた。アトマイザーに入れておいたクロエの香水をつけるか迷ったけれど、さすがに気合いが入りすぎているように思われるかと思って、やめた。
 期待しているのがバレないように、スマホをいじりながら恭平を待った。
 お風呂からあがった彼は、髪をバサバサと拭きながら、ベッドの上であぐらをかく。私からぎゅっと抱きついて、軽くキスをした。今日こそは、と思った。
 ドキドキが徐々に速くなっていく私を前に、彼は小さくため息をついて、こう言った。
「明日でもいい? って言われたんです」
 それだけで勘のいい私は、一瞬で察してしまった。
「あー……」
 店長は骨張った手のひらで顔を覆う。
「それは……ショックかもね。いや、かなりショックだと思う。うん」
「正直、昨日にかけてたところはありました。彼もそのつもりでいてくれるだろうって」
「すいません、さっきから何の話ですか?」
「だから、ほら……」
 おそらく伝わっていない黒田さんに、店長が小声で耳打ちした。黒田さんは眉間に皺を寄せながら真剣に話を聞いていたけれど、そのうち少しだけ顔が赤くなる。「な、なるほど」と気恥ずかしさを誤魔化すように、眼鏡のブリッジを中指でくいっとあげた。
「欲求不満だった、とかじゃないんです。そういう問題じゃないんです」
 そうだ。性欲とかの話じゃない。そうじゃなくて。
「私のこと、本当に好きじゃないんだな、好きじゃなくなったんだなって、思っちゃったんです。一か月も会ってなかったのに、触ろうとすらしなかった。健全な二十代の男性が、一か月ぶりに女を抱けるチャンスを与えられたのに、それでも『明日にしてほしい』と頼んでくる。そのときの絶望感、と、いうか……。もう、女としての価値がないってはっきり烙印を押された気分でした」
 初対面の人にここまでぶちまけていいんだろうかと思いつつも、二人が真剣に聞いてくれているおかげか、不思議とすらすら話せてしまう。
「恭平が何を考えてるのかわからない。別れようと言うわけでも、かといって私に直してほしいところを教えてくれるわけでもない。解決策がわからないまま放置されるの、本当しんどくて。こんなことならどうしたいのかハッキリ言ってくれた方が楽だ、と思っちゃって……」
 スプーンの上に涙がぽたりと落ちて、小さな水たまりができる。
「我慢できなくなって、私のこと好きじゃなくなったの? もう好きじゃないなら、私たち別れた方がいいんじゃない? 私だって、自分に興味ない人に時間使いたくないしって、きつめに言っちゃったんです」
 それだけは絶対言わないようにしようと決めていた。この四年間、いっつも、喉元でギリギリ我慢していたのに。
「否定して、ほしかった?」と店長が、そっとたずねる。
 そんなわけないじゃん、って言ってほしかった。違うよ、好きだよ、今日は疲れてるだけ。そう言って頭を撫でてくれたら、手を握ってくれたら。
 それだけで……。
 本当に、それだけ、か?
「でも……恭平にもちょっとは傷ついてほしいって気持ちも、あったと、思います」
 スプーンを置いて、ティッシュでまぶたをおさえる。最後に恭平の目にうつる姿は最高に美しくありたいと思って、朝気合いを入れたメイクも、全部がはがれ落ちていく。
「私が傷ついてるのもわかりきってるくせに、見ないふりをする。まともな話し合いもできないで適当にはぐらかされて終わる。そんな態度にずっともやもやしてました。でも私も私で、自立した女でいたいとか、恭平が忙しいときは一人の時間を楽しめる女でありたいとか、いろんなプライドが邪魔しちゃって」
 だからいつも、何をされても「大人の対応」を心がけた。冷たくされても断られても冷静に話すようにした。
 でもそれを繰り返すうち、ふつふつと、今度はまた別の怒りが湧いてきた。
 私は二人の問題で怒ってるのに、なんで、「感情的になると大人気ない」みたいな感じになるの。怒るの、当たり前じゃん。私たちのことなんだよ。なんであなたは、自分には関係ないみたいな顔してるの。
 あなただってちょっとは、私のために傷ついてよ。
「『別れよう』って言われて傷ついてる顔を見たかった。私がこれだけ傷ついてるんだから恭平だって、私のために傷つけられてほしかった。その顔を見れたら少しは……」
 既読がついてから三日経たないと返ってこないLINE。ようやく返信が来たと思ったら、スタンプ一個だけ。そこからまた三日待って、「今日めっちゃ寒い! 風邪ひかないようにね」と当たりさわりのない連絡を送る。そんな日々の繰り返しも、恭平の傷ついた顔を一瞬でも見られれば、我慢できると思った。
「最低、ですよね……」
 どう返せばいいかわからないのか、しんとした沈黙が続く。
「……いや、そんなもんだよ」店長はコーヒーを飲みながら、静かに言った。「結局、そしたら彼は、なんて?」
「お前に、別れようって言わせようとしてた、って。自分からはどうしても言いづらくて、お前から別れたいって言い出すように、わざと、連絡を返さなかったり、イベントごとを忘れたりしてたって、そう言うんです」
 そして、小さな声で謝ったのだ。本当にごめん、と。うつむきながら、目も合わせずに。ちょっとくらい泣いてみせてよと思ったけれど、結局恭平は最後まで涙を流さなかった。
「傷ついた顔、別にしてなかったです。無表情で、冷静でした。それがまた、つらくて」
「なんというか、ずいぶんと不器用な人だね」
「そういうところが、好きだったんですけどね……」
 子供っぽくて、鈍感で、その場のノリと勢いだけで生きているような人。ロマンチックなことが苦手な彼が、不器用なりにがんばって私を喜ばせようとしてくれた瞬間のくすぐったさをもう一度味わいたくて、あのころの彼にもう一度会いたいとあがき続けて。
「それが、昨日の二時です。いっそ朝まで喧嘩が続いてくれればよかったんですけど、話すことがなくなっちゃって。結局、同じベッドの端と端で寝て朝の八時に解散しました」
 寝返りを打つと、五十センチくらい先に恭平の背中があった。ついさっきまで「触ってもいい背中」だったはずなのに、一瞬で「触ってはいけない背中」に変わってしまった。
 私のこと好きじゃなくなったの? という一言さえ言わなかったら。
 疲れてるなら無理しないで、と優しく言えていれば。
 私はまだ、この背中を触っても許されたかもしれないのに。そんなどうしようもないたらればが、二時から夜が明けるまでずっと、ベッドの上をぐるぐると走り続けていた。
「何がダメだったんだろう。考えたくなくても、そればっかり考えちゃうんです。重かったのかな。でも、重いって思われないように、返信も、本当はすぐに返したかったけど、一時間は置いてから返すようにしてたし。私、がんばったんですよ。本当はもっともっと、彼に好きって言いたかったけど」
 そうだ。何度、LINEの「好き」を親指で消しただろう。
 最後に別れた今朝だって、まっすぐに彼の顔を見て「好き」とは言えなかった。「もう一度やり直そう」という彼の言葉を待ち続けて結局、何も伝えられずに終わった。
 でも、こんなことなら。
「好き。大好き」
 頬の上にまた、冷たさを感じた。顎先から涙の雫が垂れて、カレーの一部になっていく。
「大好きだった。ぜんぶぜんぶ、大好き。こんなことなら、もっと言えばよかった」
 もっと言えていたなら、後悔しなかっただろうか。
 馬鹿な戦略なんてあれこれ考えないで、ただ「好き」と素直に言っていたら。
 怖かったのだ。とても。生身の自分で勝負するのが。彼が求める「いい女」像とは何か、常に考えていた。彼の「いいね」欄に沿う女でいようと思った。でも結局、そうやってあれこれ動き回った結果がこれだ。考えすぎて、バカみたい。
 結局自分が取り繕いすぎていたから、恭平の本音も何も、わからないままで。
 指先が震えて、でも止められなくて、今さら泣き顔が恥ずかしくなってきて、目元をワンピースの袖口でこすりながら、薄味カレーの残りを食べる。
 ああ、そうだ。カレーだって、おいしいって言ってくれてたけど、きっとあれも私に合わせていただけだったんだ。もしかしたらあのときからずっと恭平は、私と別れるタイミングを見計らってたんじゃ……。
 ぴたりと、スプーンを持つ手が止まる。
 あの言葉は、あの態度は、本音だったのかな。恭平が私に、本音で向き合ってくれてたこと、あったのかな。頭上に、恭平の顔が浮かぶ。「これ、人生で食べたカレーでいちばんうまいよ!」と言いながら、数日分つくりおきしておいた大鍋のカレーを何度もおかわりして、一晩で全部食べ尽くしてしまったときの、屈託のない笑顔。
 あれは、本当の笑顔だった?
「ねえ、元気出して。よかったらアイスでも……」
 だめだ、やっぱり……。
 やっぱりどうしても、諦めきれない。
「あの、すいません、私のカレー……」
「ん?」
 一緒に過ごした四年間のうち、どこまでが本当で、どこまでがウソだったんだろう。
 私のどこまでがダメで、私のどこまでが、ダメじゃなかったんだろう。
 もう、何も信じられない。
「……恭平の好きだったカレー、食べてみて、もらえませんか?」
 気づけば、そう頼み込んでいた。こうなったらやけだ。はっきりと確かめるまでは安心できない。
「食べる? 誰が?」と店長が首を傾げる。
「あなたが」
「俺が!?」
「あと、そこのお寺のかたも……黒田さん、でしたっけ」
 急に矛先が自分に向いて驚いたのか、黒田さんは飲んでいた水を吹き出して咽せた。
「ぼ、僕もですか?」
「だって、一人だけだと本当かどうかわからないし……」
「いや、あの、僕このあと修行が」
 濡れた顎をハンカチで拭きながら、黒田さんはそろりと席から立ち上がる。
 すると、店長が黒田さんの肩をがしっと掴んだ。「黒田さん」と、鼻先に顔を近づけ、店長は微笑む。薄めの唇が、化粧品の広告のように完璧なカーブを描いていた。
「ここで俺一人だけ置いて出ていく……なんて殺生なこと、しないよね?」
 黒田さんは、広い肩から店長の腕を無理やり剥がし、作務衣の襟元を整える。
「いや、僕はただの客であって……というか、いきなりそんなこと言われても」
「お願いします」
 私は二人に向かって頭を下げた。
 休ませてもらった挙句、失恋の愚痴まで聞いてもらってしまった。その上自分のレシピを食べてくれなんて、虫がいいにも程があるとわかっている。
「お願い、します……。このお礼は必ず……あっ、菓子折り持ってあらためて謝罪にきます! お金も……あっ、そうだ、貯金ならけっこう……私、定期預金もしてるし!」
 でも、ごめんなさい。このままじゃどうしても私——。
「……わかったよ。わかった。必要なものは?」
 店長は諦めたようにため息をついてキッチンへ入る。冷蔵庫を開けて、中身を確認した。
「玉ねぎと鶏肉ならあるよ。あと、足りないものあったら書いて。買ってくるから」
 はいこれと、エプロンとメモ帳を手渡してくる。
「……いいんですか?」
「乗りかかった船だ。最後まで付き合うよ。それに」
 店長は、少しだけ寂しそうに笑って言う。
「失恋ってのはさ、タイミングを逃すと、永遠にできなくなるもんだからね」



 テーブルには、皿に盛られたカレーが三人分、行儀よく並んでいる。バターとスパイスの色で染まった、クリーミーなカレー。最後の仕上げで、ドライパセリを振りかける。
「ど、どうぞ……」
 ごくりと、唾を飲み込む。私は、店長と黒田さんをじっと見つめた。
「いただきまーす」
「いただきます」
 ついに、店長と黒田さんは、スプーンでごはんとカレーをすくい、思いきり頬張った。
 手のひらに滲んだ汗を、ワンピースに擦り付ける。味見はした。おいしかった。私はおいしいと思った。でも、それが受け入れてもらえるか——。
 店長はカレーをごくんと飲み込み、そして、目を大きく見開いた。
「うまっ!」
「え、本当ですか?」
「すげえうまい! けっこう辛いけど、まろやかで。俺、好きだよこの味」
 目尻に、くしゃっとした笑い皺ができていた。
「さっすが、彼のために研究を重ねただけあるね。……って、そういや黒田さん、さっきも俺の作ったカレー食べてたよね? お腹空いてたの?」
 カレーをかき込んでいた黒田さんの手が一瞬止まり、目が泳ぐ。
「いや、正直な話……口直ししたかったというか」
「えっ、ひどい」
「雨宮さん、今日のカレー、味見しましたか?」
「……あ」
「たぶん、水いれすぎてシャバシャバになってましたよ」
 店長は慌ててキッチンに入り、今日出していたカレーを味見した。うわっ、と顔をしかめながら、鍋の蓋をとじる。
「あれ、レシピどおりに作ったと思ったんだけどな。昨日はうまくいったのに……」
「どうせ僕しか食べないからって油断してたんじゃないですか」
 言ってくれればいいのに! クレームは入れない主義なのでと、二人はのんきに言い合っている。ってことは、店長がたまたま間違えたからあの味になってただけで、やっぱり私の味覚はおかしくなかった?
 私はもう一度、ずいと二人に詰め寄る。
「おいしいんですね?」
「おいしいよ」
「おいしいですよ」
「私が可哀想だからとか、気を遣っておいしいって言ってくれてるわけじゃ、ないんですよね?」
「これが、気を遣ってるように見える?」
 店長は、あっという間にほとんど空になった皿を見せつけながら言った。
「なんだ……。よかった……」
 私の料理は、ダメじゃなかった。視界がみるみるマーブル模様になって、目の前のカレーも、店長の綺麗な顔も、黒田さんの坊主頭も、すべてがうずになってとけていく。
 私は天井を見上げ、大きく息を吐き出した。足の先端から、力が抜けていくのがわかる。
 カレーが間違ってなかったからって、別に、すべてが「間違いじゃなかった」ことにはならないけれど。
「よかっ……たあ……」
 ほっとして、カウンターに伏せる。
「そんなに心配だったんですか」
「……私、この四年間のことが、全部うそだったんじゃないかって思っちゃって」
 恭平の笑顔も好きも楽しいも、私が「言わせてた」だけみたいに思えて。
「実際にどうだったのかは、わからない。私一人でバカみたいに空回ってたのは間違いないけど、でも……。本音を言ってくれてた部分も、あったんですね、きっと」
 ああ、もう、今日は涙腺がゆるゆるだ。
 また泣いてんのかと思われるのが嫌で、ワンピースの袖で涙を拭う。
「……結城さん、でしたっけ」
 小さな声がして頭を上げると、バターチキンカレーを食べ終わった黒田さんだった。ナプキンで口元を拭きながら言う。
「四苦八苦という言葉を、知っていますか?」
「しくはっく……あ、はい、四字熟語の?」
 唐突な話に、頭がフリーズする。えっと、何の話?
「これは本来、仏教用語なんですが」
「うわ、いきなりお坊さんアピールしはじめた。この人ね、お坊さんみたいな見た目だけど、本当にお坊さんなんだよ。しかもこう見えて、東大卒の元商社マン」
「ちょっと、うるさいですよ」
 店長がにやにやしながらからかう。近所の星山寺というお寺で修行をしていて、ほぼ毎日、雨宿りにクリームソーダを食べにくるのだと、店長が説明してくれた。
「まあ、話を戻すと」
 黒田さんは照れ臭そうに、こほんと咳払いをした。
「病気とか、老いとか、嫌いな人と付き合わなきゃいけないとか、生きてると、いろんな苦しみがあるでしょう。仏教では、そういう人間の避けられない苦しみ、悩みを『四苦八苦』としてカテゴライズしているんです」
「へえ……」四苦八苦って、そういう意味だったんだ。全然知らなかった。
「僕が出家しようと思ったのは、この四苦八苦のうちに『生きること』そのものが含まれていたからなんです。つまり、生きることも、苦しみだということです」
「えっ、それだけで?」
「そう。生きるってただでさえ、しんどいことなんだと僕は思います。嫌われたくない。傷つきたくない。そんな中でもがきながら、体当たりで恋愛をして……好きな人に好きになってもらおうと努力して、オリジナルのカレーのレシピまで作って」
 黒田さんは、空になったカレー皿の縁をそっと撫でる。
「すごいことやってるんじゃないですか、あなたは。四苦八苦と闘ってるんだから。立派ですよ。バカみたいとか空回ってるとか……そこまで卑下しなくてもいいと思いますけど」
「黒田さん……」
「なに、黒田さん。いいこと言うじゃん」
 苦しかった。彼のことばかり考えていた。忘れたい忘れたいと思っても、頭の中から追い出すことはできなかった。でもそれは、私がそれだけ彼を好きである証だった。彼のことを猛烈に愛した時間は、たしかにあった。
 下手くそでも、思ったとおりにならなくても、私は闘ったんだ。「生きる」をちゃんと、がんばったんだ。
「なんか……」
 急に、身体中にエネルギーが満ちていくのを感じた。動き出したくてたまらない。血液が猛スピードで脳と心臓を行き来している気がする!
「成仏しそう」
「え?」
「ずっともやもやしてた私の怨念が成仏しそう!」
 私は思わず椅子から立ち上がった。
 店長と黒田さんが、ぽかんと口を開けてこちらを見上げている。
「黒田さん、そのままの勢いで、南無阿弥陀仏的なこと言ってもらっていいですか!?」
 私は中腰になり、黒田さんに向かって両手を突き出した。こい!
「あ、宗派が違うので無理です。あとこういうときに使う言葉じゃないです」
「じゃ……じゃあ、元彼よここに眠れみたいな感じでも可!」
「元カレ死んだみたいになっちゃうでしょうが」
「あー、せっかく黒田さんのありがたい言葉で怨念が全部消えていきそうだったのに……」
「仏教をなんだと思ってるんですか……」
 くっそー、このままの勢いで、なんか全部スッキリして、明日になったら苦しいことなんもない! 恭平のこと完全に吹っ切れた! って感じになったらいいなーと思ったのだけれど、そう簡単にはいかないようだ。
「だから言ったでしょ。失恋の傷、簡単には癒えないって。それよりさ、ももちゃん。俺、もっといい方法、思いついたんだけど」
 私と黒田さんのやりとりをしばらく傍観していた店長が、急にそう言った。
「え!? なんですか教えてください!」
「元カレを見返してやることだよ」
「見返す……」
 そういえば、失恋の傷を癒す三原則は、共感、時間、復讐だと言っていたような。
「復讐ってこと!?」
「そ。だってこんな本格派のカレー作っちゃうほどの情熱を持ってるのに、元カレはそれを受け止めてくれなかったんだよ? それってなんか、悔しくない?」
「悔しい、です」
「だ、か、ら。このカレー、うちで出さない?」
 まるでアイドルのような満面の笑みで、店長は言った。
「え!? だ……出す!?」
「つまりね、このカレーをうちの店の新メニューにするでしょ?」
 店長は、人差し指を出して言う。
「それで、カレーが人気になるでしょ?」
「はあ」
「で、行列ができるくらい有名になったら……?」
 あとは、わかるよね? というように、店長はぱちっと片目をつぶってみせた。
 私のカレーが人気になって……。有名になって……。
「そしたら、恭平の耳にも入るかも!」
 うんうん、と店長が満足げにうなずく。
「それでそれで、このカレーが超有名になっちゃって、『三軒茶屋で一番人気!』ってテレビとかでも取り上げられて、うっかり全国展開!? レトルトカレー発売!? セブン-イレブンでコラボメニュースタート!?」
「いや、そこまでは言ってない」
「そして六年後、スーパーで売られていたレトルトカレーを、恭平がうっかり買ってしまうの!」
 興奮がとめられない。やばい! めっちゃテンション上がってきた!
「六年後っていうのがリアルですね……」
「なんか演説はじまった」
「そのレトルトカレーを一口ふくんだ彼はハッと気がつく、『この味って……』。そして、パッケージに印刷されている監修者の名前を見て驚愕する! なぜなら、そこにあったのは六年前に別れた元カノの名前だから!」
「あれ、俺ひょっとしてやばい人に声かけちゃった?」
「店長! 私をここで働かせてください!」
 私は立ち上がり、店長に向かって腕を大きく差し出した。
「うん、だからそう言ってるじゃん」
 店長は、私の手を握る。少しひんやりとした手のひらだ。交渉成立だ。
 しかし、黒田さんは少し冷めた目をしていた。
「雨宮さんそんなこと言って、キッチン担当の子がいなくなって困ってるから誘ってるだけじゃないんですか」
「ぎくっ……いやいや、そんなことないよ!」
「この間も、電話で売上がやばいとかなんとか言ってませんでした?」
「黒田さん、盗み聞きなんて悪趣味だよ! あのカレーを食べて、ももちゃんの腕は本物だってわかったし、それに……」
「それに?」
「ちょっと、面白いアイデアがあるんだ」


 一か月後。
「……店長、なんですかこれ」
「いいだろ? 俺が作ったんだよ。なかなかうまいもんでしょ?」
「じゃなくて!『元カレごはん埋葬委員会』って何!? しかも会長、私になってるし!」
 会社を無事に退職し、いよいよ今日から新生活だと出勤した矢先、店の壁には大きなポスターが貼ってあった。

〈元カレごはん埋葬委員会! 失恋エピソード&元カレ(元カノでも可)との思い出のレシピ募集中!〉

 と、でかでかと書いてある。
「ももちゃんも無事にスタッフになったことだし正直に話すけど、俺、控えめに言ってかなり顔がいいじゃない?」と、店長は真顔で言った。
「……はあ」
 あれ? こういう感じの人だったっけ?
「普通、こんな美男子が店長ならもっと繁盛してもいいはずだよね?」
「否定できなくて悔しい……。でも、たしかに。若い女の子とかいっぱい来そうですけど」
 今日も喫茶「雨宿り」は閑古鳥が鳴いている。裏通りで往来が少ない場所だが、中に入れば雰囲気だって悪くない。このレトロ感がいいと言ってくれるお客さんもいそうなものなのに。
「そこなんだよ、問題は!」
 店長は、こぶしをぎゅっと握りしめて力説した。
「女の人たちは、毎回常連になってくれるの。多い人だとほとんど毎日ランチを食べに来てくれたり、カウンター席でクリームソーダを飲みながら俺に恋愛相談してきたり……」
「いいじゃないですか」
「そこなんだよ。その人の恋愛相談に真剣にのっているとね、あら不思議、いつの間にか目線は俺の方へ……。『店長さんみたいな人が彼氏だったら、こんな思いしなくてすむのかな?』と熱っぽく言われちゃうわけ」
 なるほど、そういうことか。ようやく合点がいった。どうりで、このあいだも私の失恋話を聞くのがうまかったわけだ。
「ずいぶん羨ましい悩みですね」
 薄ぼけたベルの音がなり、黒田さんが店に入ってきた。慣れた動きでカウンター席の一番端に直行する。
「何を考えているかわからない腹黒男に相談なんて……それなら星山寺に来てくれた方がよっぽどためになる言葉を……」
「あ、だからね、そう言うと思って黒田さんの名前も書いといたから!」
 店長は満面の笑みを浮かべてポスターを指さした。
「えっ」
 黒田さんは慌てて椅子から飛び上がり、ポスターを間近で見る。
「よかったー、黒田さんも乗り気で。助かるよ、本当に」
「えええ本当だ! よく見たら会長:結城桃子、埋葬係:黒田穂積って書いてある!」
「僕を巻き込まないでくださいよ……」
「無理だよ。もうチラシも配ったし、金曜日の夜十時からスタートだからね」
 店長は、ペラ一枚のチラシをひらひらと揺らす。ポスターと同じデザインのロゴが書かれたチラシだ。
「金曜日の夜十時って……今日じゃん! そんな、いきなり無理よ!」
「悪いけど、これは店の存続にもかかわる事態なんだよ」
 店長は、ため息をついた。
「俺が恋愛相談にのると、九十九%の女の子は俺のこと好きになっちゃうの。お客さんと恋愛なんてできないから、当然、断るでしょ? そしたら、『思わせぶりな態度取らないでよ!』って泣きながら出ていくでしょ? で、結果、こうなると」
 店長は、スマホを私たちに向かって差し出す。
 黒田さんと私は、二人でそれをのぞき込んだ。喫茶「雨宿り」のグーグルレビューだ。
「店長がクズ」「二度と行きません!」「この男に騙されないで!」
 見たこともないような罵詈雑言のオンパレードだった。
「平均一.八、星1レビューが一〇五件って……田舎の歯医者でもここまでひどくないよ」
「思わせぶりにしてるつもりはないんだけどね。せっかく来てくれたんだからと思って精一杯のおもてなししてると、こうなっちゃうんだよ」
 そうか、イケメンもいろいろ大変なんだな……。
「まあ、その点ももちゃんはまだ元カレに未練タラタラだし、ちょっと変な子だから、俺に惚れる心配ないでしょ?」
「変な子って……」
「だから、俺のところにくる失恋の相談は『元カレごはん埋葬委員会』で聞く。ももちゃんが共感して、本職の黒田さんが怨念を成仏させてあげる。それで、失恋にまつわるレシピとか聞いて、メニュー化すれば一石二鳥でしょ?」
 無理やり言いくるめられている気もするが、まあ、筋は通っている……のか?
「店が有名になったら、BRUTUSとかに取り上げられるかもよ」
 店長がこそっと耳打ちしてきた。BRUTUS!? たしかにそれは悪くない。
 さらに、むすっとした表情を崩さない黒田さんの耳元にも口を寄せて、何かを囁く。しばらく眉間にくっきりとした皺を浮かべていたが、黒田さんはやがて諦めたように、ため息をついた。
「……一日二杯なら、手を打ちましょう」
「ドリンク二杯、サービスってこと?」
「いや、クリームソーダ二杯」
「そんなに飲むの!?」
「修行には大量のエネルギーを使いますので、仕方のないことです」
「そんな言い訳して……」
 二人のやりとりを見て、私はぷっと吹き出した。

 外はまたぽつぽつと雨が降り出した。雨用のマットを入り口の外に敷く。
 ふと、看板の文字が変わっていることに気がついた。
 表面には「新メニュー! 元カレが好きだったバターチキンカレー」、裏面には「元カレごはん埋葬委員会 OPEN」と書かれている。
 元カレごはん埋葬委員会、かあ。
 正直なところ、まだ傷はじゅくじゅくと痛むし、恭平を思い出すこともたびたびある。でも少しずつ、本当に少しずつだけれど、この傷と付き合っていく準備は整ってきた気がする。
 
 看板を裏返す。十時からは、秘密の夜会のはじまりだ。



小説『元カレごはん埋葬委員会』(サンマーク出版)は、12月に発売予定です。このnoteでも、編集者さんに教わったことや、執筆時の学びなどを発信していきますので、どうぞ引き続きよろしくお願いいたします!

ゲラを読んでくださる書店員様を募集しております! 川代のXアカウントへDM、またはメール:kawashirosaki★gmail.com(「★」を「@」に置き換えてください)でご連絡いただくか、サンマーク出版の担当営業さんに直接お伝えいただく形でも大丈夫です。よろしくお願いいたします!

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