痛note往復書簡六通目
内澤 崇仁さま
秋ですね。ねえ秋でしょ? 九月、しかも下旬なんだから。と汗だくでソイアイスを食べながらこのお手紙を書いております。
とはいえ、あっちーなはやく涼しくなんないかな、とか言っていたらいつの間にか師走になっているのだからあらまびっくり!
秋、どこいったねん!
ってこの台詞を毎年言っている気がします。学習しない、わたくし。
というわけで、今回はそんな短い秋をもっと楽しめるような内澤さんのエッセイをテーマにしましょう。
さあっと冷えた空気がすり抜け、眼前に赫耀とした景色が広がっていくようです。美しいですね。
さて、そんなモミジですが、なぜ赤く染まるのでしょう。私は知りません。
だそうです。へー。ちなみにイチョウが黄色くなるのは、気温が低くなると同じくクロロフィルが減り、もともとあったカロテノイドという色素が目立ってくるから。
そうそう、紅葉といえば私は北野武監督の『Dolls』という映画を思い出します。四季折々の美しい景色、そして自然の美しさと調和した衣装。芸術的な作品です。
北野武監督といえば、彼の小説を映画化した『アナログ』。あの作品の劇中曲は内澤さんが担当され、しかも映画にも出演されていましたね!
劇中曲を聴いたとき、心に襞があるのではと思えるほど感動で震えました。そして映画自体は、優しい気持ちになれる純愛作品でしたね。ちなみに私は陰キャなのに『アナログ』のようなラストは心が救われるので好きです。
紅葉に映画、美しい世界を見ることで、心が豊かになります。
そういえば、「見る」ことについて内澤さんはこんなことを書かれていましたね。
えっ、そうなん!? 知らんかったわ!
ちなみになぜ内澤さんが視覚の話をされたかは下記に続くわけです。
な、なんて思慮深い。「頭の中はいつだって空っぽさ」でお馴染みの私とは大違いです。
ということで、少しでも内澤さんのことを理解できるように、視覚について今回は調べてみることにしました。
ちなみに、私はひどい近視とひどい乱視なのでコンタクトをしていますが、実はぼやけて世界が見えているのです。いやあ、鏡に映る自分がぼやけるのはありがたいことですね(ぼやけているため、ぼんやりと丸く黒い目と小さな口があるだけなので、自分では自分の姿を何かのゆるキャラみたいだと思って生きております。ポジティブ!)。
角膜は眼球の一番外側(外気に接する部分)にある薄い膜です。薄いですが五層にもなっており、光を取り入れるだけでなく、眼球を保護する働きも担っています。角膜の奥には前眼房、虹彩、そして水晶体となります。人間の目の屈折力は三分の二が角膜、残りを水晶体が担っていますが、角膜は形状や位置は常に一定です。そこで、ピントをあわせるためにカメラのレンズ前後するように毛様体で水晶体の厚みを変化させているのだそうです。
へー、人間の目ってすごいな。
ところで、紅葉を楽しむことができるということは、モノクロではなくカラーで世界を見ているということになります。では、どのようにして私たちは色を見ているのでしょうか。
そもそも私たちには可視光線内の色しか感知できません。
錐状体Sは短い波長、つまり青色系に反応します。Mは中くらいで緑、Lが長い波長、つまり赤となるわけです。
とはいえ、紅葉を「見る」ためには目だけでは不可能です。
てなことで、せんせ、出番でっせ。
脳の大せんせー。
人間は目で世界を見ているというより、目が受け取った光の情報を脳で再現し、その世界を見ているのですね。さらに、脳大せんせすごいぞ話は続きます。
二次元の情報から三次元を推論するって、どんな超人技やねん! 只者じゃないな、脳よ!
こんな複雑なことを日々、しかも瞬時に目と脳の連携プレイによって私たちはこの世界を「見て」いるわけです。
ただ、どうやって二次元の情報から脳は三次元を再現しているのでしょうか。ここは光と影が鍵となるようです。
いったい「世界の構造に関するルール」とは何でしょう。
脳は太陽(あるいは光源)は常に上にあると言う前提で二次元の網膜像から三次元世界を推論し、わたしたちに世界を「見せて」います。
ただし、この前提が覆されると脳は混乱し、目の錯覚というものがおきます。
下記の図をご覧ください。
この不細工な立方体は川勢によるフリーハンドです。なので、そもそも立方体に見えなかったすんません。ゆるして。
ところで、いまデスクトップのパソコンあるいは大型のノートパソコンでご覧になっていたら、ぜひともスマホに変えてください。
変えましたね(強引)。
さ、では画面を上下逆さまにして立方体をしばしじっと見つめてください。
どうですか? 立方体ではなく、窪んだ四角に見えませんか。あるいは、黒い壁に囲まれた白い床。
見えましたね(強引二回目)!
じつは、目の錯覚の原理を知るまでわたしはずっと人間の目って騙されやすいんだなくらいに思っていたんです。でも違ったんですよね。とんでもないスピードで脳が計算をしているのでこんな意地の悪い錯覚が起きるようなデータを送っちゃいかんって話ですよ。
さて、最後に。
視覚のすごさを知ったわたしたちはその視覚をせっかくなのでコミュニケーションに使っていこうじゃないですか。人がより生きやすくなるためのコミュニケーションに。
いやはや、『ヒトの目、驚異の進化』にも書いてあったことですが、人間は誰しも超人なのかもしれません。
どんなに自分が無力で惨めで自分を大切に思えなくても、よく考えてみたらこの体は驚異の連続で「生きて」いるんですよね。
そんなことを気づかせてくれる
「世界が退屈な日でも踏み出せば記念日になるよ」
という素敵な歌詞の『Ao』で今回は締めるとしましょう。
では、また。
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