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『海に住む少女』(光文社文庫)シュペルヴィエル 著 永田千奈 訳

この海に浮かぶ道路は、いったいどうやって造ったのでしょう。どんな建築家の助けを得て、どんな水夫が、水深六千メートルもある沖合い、大西洋のまっただなかに、道路を建設したというのでしょう。

 フランスの作家シュペルヴィエルによる『海に住む少女』はこのようにはじまる。

 なぜ大西洋に道路が?

 私は、大西洋の中心へ実際に行ったことはないが、それでも道路なんて建設出来ないと思っている。

 因みに、明石海峡大橋や瀬戸大橋の橋台や橋脚は海中にあるが、あれは水深がそこまで深くなく(なんせ相手は水深六千メートルだしね)、ケーソン工法によりコンクリートの打設をしているので強固なものとなっている(詳しくは鹿島建設『橋の歴史物語』をネットでぜひ。面白いでっせ)。ざっくり言うと、ケーソン工法とは、コップを逆さにして水中に沈めると空気の圧によりコップ内へ水の侵入を防ぐ原理を利用したものだ。

 あれ、いったい私は何の話をしているのか(錯乱)。

 つまり、大西洋の真ん中に道路の建設など現実的に無理である。だが『海に住む少女』では、道路どころか、赤レンガの家や鐘楼も出てくる。そして、もちろん少女も。

 あり得ない場所に、あり得ないはずの少女が暮らしている。まるでそれが当然であるかのように。

 少女は毎朝、包装紙に包まれた焼きたてパンを店のカウンターから持って行く。ジャムや卵なら台所を探せばいい。太鼓もあるし、ロウソクも、それから植物図鑑だってこの街にはある。

 だが、ここには少女以外誰もいない。

 少女は大海に一人きり。街は少女に「変わらない」暮らしを強要するかのように今日も明日も明後日も、変わらず焼きたてパンを、書籍を、そしてこの街を与え続ける。

 そんなある日、少女は棚から写真アルバムを見つける。そして、写真のなかに自分にそっくりな少女がいることを知る。

少女はこの写真を見ると、しばしば何だか居たたまれない気分になりました。何だか写真のなかの少女のほうが正しいような、本物のような気がするのです。

 私は誰? どうしてここにいるの。あなたと私ではいったい何が違うの。

 少女は、写真の女の子を知ってしまったがために、その少女を、そして自分の存在が気になってしまう。

 こうして彼女の心に変化が生じる。「変わらない」街に、変わってしまった一人ぼっちの少女。

 少し話が逸れるが、口紅テストという比較認知科学の実験がある。チンパンジーの額に口紅をつけ、鏡を見せるというものだ。チンパンジーは鏡を見て、額の口紅をこすって落とそうとする。。つまり、鏡に映る自分が自分であると認識できているという訳だ。だが、この行動は隔離飼育したチンパンジーでは見られなかったという(『あなたの中の動物たち』(教育評論社)渡邉茂 著)。要は、他者を知らなければ自分を認知するということが難しくなるのだろう。

 他者を知ることは、自分を問うことでもある。

 そんな風に、少女は自分自身や他人が頭の中を巡っていくようになる。明らかに、今までの彼女ではあり得なかった気持ちに胸がいっぱいになる。

ある日、まるで運命のいたずらのように、運命の確固たる意志にほころびが生じたかのように、変化が訪れました。

 ついに、孤独な少女は決定的な変化と出会う。変化は彼女を受け入れるのか、それとも──。

 難しい哲学書を読む気分でもないが、自分自身と向き合いたくなる日もある。愛とはなにか、孤独とはなにか、結局私はよく分かっていない。でも、愛しい人は確実にいる。考えると涙が溢れる。

 自分の中で整理できない気持ちをどうにかしたい時、私はこの『海に住む少女』を読む。

 少女を知ることで、自分を知り、そうしていつか海へと帰る日を夢見るのだ。

 あなたも自分自身と出会える海へ、今夜は訪れてみませんか?

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