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痛note往復書簡 五通目

 今回はケーキ特集です!

 あっ拝見内澤 崇仁さま

 内澤さんへの手紙を性懲りもなく書いておりますが、読んでもらえそうにもないので、姑息にも撒き餌をしてみました。

 内澤さん、ケーキお好きですよね!

 特にチーズケーキ。

 一年の中でも一番好きな月が12月。二つのわがままを親にお願いできいる月だった。
 一つは自分の誕生日と言っておねだりをし、もう一つはクリスマスだからと言ってねだる。誕生日ケーキとクリスマスケーキ、好きなケーキを月に二度も食べるチャンスが与えらるのも12月だ。

『音は空から言葉は身から』vol.5

 

 自分の好きなチーズケーキが、無類のチョコ好きな弟によってチョコレートケーキにされてしまうこともあった。

同上

 なるほど。わかりました。

 今回はそんな内澤さんのためにチーズケーキ特集としましょう。

 いまではチーズケーキはケーキ屋だけでなく、コンビニでも買える身近な菓子ですね。

 ではチーズケーキの起源はいったいどういったものなのか、まずはさっとネットで調べてみました。

紀元前776年に行われた『古代ギリシャオリンピック』で、参加した選手たちに『トリヨン』という食べ物が提供されました。

この『トリヨン』とはラードやミルク、卵、チーズなどをイチジクの葉っぱで包んで茹でたもので、イチジクの葉っぱを取ってから、ハチミツをかけて頂きます。これは今で言う『プリン』のようなものだったそうです。この『トリヨン』が『チーズケーキ』の始まりでは・・とする説が有力です。

ニッポン放送online

 ん? プリン? ちょっとこれはケーキとは言い難い。これでは内澤さんに納得していただくことは難しいでしょう。なので自分の書棚を物色してみました。

 すると『古代ローマの饗宴』に大カトーによるチーズケーキに似た「リブム」というパンと「プラケンタ」という菓子を見つけました。

リブム[パン](カトー『農事論』75)
 こね鉢で、二リブラ(約六五〇グラム)の生チーズをよくこねる。クリーム状になったら、ふるいにかけた極上の小麦粉を一リブラ(約三二五グラム)から半リブラ(約一六〇グラム)、軽さの好みにの程度に応じて加え、チーズとよく混ぜ合わせる。卵一つをつなぎに用いる。生地を平らなパンの方にちに整えて、香のよい葉の上にのせ、つり鐘型オーヴンのテストゥムで蓋をする。かまどの火が十分におこっているかどうかを見届けてから焼き始める。よく火が通ってしだいに乾き、きつね色になるまでのそのままで置く。

『古代ローマの饗宴』(講談社学術文庫)エウジェニア・S・P・リコッティ著 武谷なおみ訳
※テストゥムとは植木鉢を逆さにしたようなものではないかと本書にある

プラケンタ[菓子](カトー『農事論』76)
 外皮用に二リブラ(約六五〇グラム)の小麦粉、生地に四リブラ(約一・三キログラム)の小麦粉と二リブラ(約六五〇グラム)のアリカ。カトーはまず生地の準備から始めるよう命じている。そのためにはアリカを水に漬け、柔らかくする。次にそれをこね鉢に入れて、ある程度乾いたところで、こね始める。よく混ざり全体が均質になったら、少しずつ四リブラの小麦を加えてゆく。こね上がると麺棒でのばし、何枚もの生地にする。できたものは乾燥台にのせて乾かす。乾いたらもう一度のばし、油をしみ込ませた布でこすりながら、まんべんなく塗ってゆく。
 かまどの火がおこったら、あらかじめ熱しておいたテストゥムを生地の上に被せて焼く。この工程が終わったら、別に二リブラの小麦粉を用意して水でこね、特別に薄い生地をのばして置いておく(…)その間に羊の乳で作った一四リブラ(約四・六キログラム)の生チーズを用意する。酸味が全然ないものを選び、あらかじめ水に漬けて柔らかくしておく。水から揚げたチーズを両手で力一杯搾り、水気が完全に切れたらこね鉢に入れて、(…)蜂蜜を加え、丁寧に混ぜ合わせる。(…)焼き皿を用意して、油を塗った月桂樹の葉を敷きつめる。その上に小麦で作った外皮をのせ、はみ出した部分は四方に均等に垂らしておく。外皮の上に皿と同じ大きさに焼き上げた生地を一枚のせ、さらにその上にチーズと蜂蜜のペーストを塗る。この要領で、生地と蜂蜜入りチーズがなくなるまで全部積み重ねていくが、いちばん上は生地で終わるようにする。
 最後に垂れていた皮を持ち上げ、菓子全体がナプキンで包まれたような形にする。(…)きつね色になり外側がパリッとしてきたら取り出し、全体に蜂蜜を塗る。

同上

 プラケンタは読んでいるだけでよだれが垂れそうです。おいしそう。蜂蜜とチーズのパイに近い感じでしょうか。リブムは本書にもはっきりパンと書いてあるようにケーキではないようです。

 と言いたいところですが、何とケーキとパンの境界線はとても曖昧なのです。

ケーキの歴史を追いはじめたとたん、相反する数々の定義に揉まれて途方にくれてしまうだろう。つまり、何をもってケーキとするか、という大問題にぶつかるのだ。

『ケーキの歴史物語』(原書房)ニコラ・ハンブル著 堤理華訳

 ケーキの歴史の本なのにのっけからケーキとは何か、それが問題だ、となっています。うお、やべえ。調べものが大変なやつや、これ。

古典学者がケーキという訳語をあてる食べ物は数多い。古代ギリシアではplakous、古代ローマではplacentaという平らなケーキがさまざまな文献に出てくるが、原料によって無数のバリエーションがあるらしい。

同上

 このplacntaと呼ばれるケーキ、どうやら上記の『古代ローマの饗宴』大カトーのレシピにあるプラケンタのようです。

パスティヤ(pastilla)というアラビア式のパイ菓子がある。これはチーズと蜂蜜の入った生地を伸ばし、一枚一枚重ねて作られる。人気を博すことになったプラセンダ・エスト(placenda est)はすぐにプラセンタ(plasenta)の名になった。

『世界食物百科』(原書房)マグロンヌ・トゥーサン=サマ著 玉村豊男訳

 さらにこの『世界食物百科』は上記のリブムにもふれています。

チーズと卵入りのリバム(libum)(小麦一リーヴル〈五〇〇グラム〉、チーズ二リーヴル〈一キロ〉と卵一個)が大カトーが推奨した奉納用の菓子であった。

同上

 リブラ(リーヴル)のグラム換算が書によってまちまちなのは置いておいて、『古代ローマの饗宴』ではリブム(リバム)はパンとあり、『世界食物百科』には菓子とありますね。さらに

古代ローマの資料にはlibumも頻繁に登場する。これはチーズケーキの一種で、しばしば表面に蜂蜜が塗られる。

『ケーキの歴史物語』(原書房)ニコラ・ハンブル著 堤理華訳

 うーん、菓子とパンを区別するのはやはり難しいですね。とはいえ、チーズケーキのご先祖さまと呼べそうな菓子が大カトーの時代(前二三四〜一四九)からあったようです。

 では、大カトー以前のチーズ菓子はあったのでしょうか。

古代ローマでも風味のある料理にチーズが有効に使われた。レシピ本『Apicius(アピシウス)』にその例がある。限られた証拠によれば、チーズは古代のパン、ケーキ、菓子で、もっとも一般的に使われた。焼く前のパン生地に加えれることもあれば、油で揚げてゴマをまぶしたチーズとゴマの砂糖菓子(紀元前三五〇年頃に詩人の豪華な宴会で出された)にも使われた。

『チーズの歴史』(P-vine BOOKs)アンドリュー・ドリュビー著 久村典子訳

 このように古くから愛されてきたチーズケーキ。ちなみにチーズ最古の直接証拠はエジプトで発見されたそうです。

エジプト第一王朝(紀元前三一〇〇〜二九〇〇年頃)の墓から出土した二つの壺のなかから不思議な物質が見つかり、(…)考古学者が次々に検査した(味見はしなかったらしい)結果、この物質はチーズと断定された。

同上

 紀元前三〇〇〇年頃にはすでにあったと思われるチーズ。す、すごい歴史です。では日本におけるチーズの歴史はどうだったのでしょう。

 古代にアジア大陸から牛が日本へ移入された当時においては、牛はもっぱら労働役獣あるいは食用獣として使用されていたが、その乳や乳製品は利用されていなかった。そのことは、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『万葉集』、あるいは各種の『風土記』などによっても明らかである。

『日本畜産史』(法政大学出版局)加茂儀一著

一部に日本の古代神道におけるように、不浄を忌み、すべての動物の生理的排泄物や血を穢れとして取り扱い、従って動物の乳を飲むこともまた忌むべきこととされていたからである。

同上

 古代の日本人には牛乳を飲むなんて考えられないことだったようです。ただそんな日本に変化が訪れます。

四世紀後半以来大陸との交渉が盛んになるにつれ、(…)外国文化の導入による国家の体制と文化の確立のために、大和朝廷は大陸の知識人や技術者を進んで迎え入れた。

同上

 『日本書紀』欽明天皇の一四(五五三)年春正月の条によると、百済より医博士くすしのはかせやくの博士などの交代来朝がはじまり、医薬の知識の導入が盛んになりました。
 また、同天皇二三(五六二年)に、大友連狹手彦おおとものむらじさてひこが勅令によって高麗を破り、そのとき『名医別録』や『神農本草経』を持ち帰ったそうです。

西城、ことにインドからの影響によるものであって、中国では牛乳の医薬としての効能は高く評価されていた。従って当時わが国に舶載されたこれらの医薬書における牛乳に関する記事は、珍しいものとして読まれていたに違いない。

同上

 ここから、日本でも牛乳は薬として一部の貴族階級(そのなかでも仏教に関心をもつ人)には知られていたと考えて良いようです。さらにその後も牛乳がいかに貴重なものかが外から伝えられます。

牛乳の飲用や効能のことをわが国に伝えたのは、六世紀のはじめころにわが国に伝来した仏教における牛乳の功徳に関する教えであった。元来仏教は戒律では肉食を禁じているが、牛乳の飲用は認めている。

同上

 本書では釈尊が難陀婆羅なんだばら(スジャーター)から白牛の乳の喜捨を受けた話がでてきます。これはあまりに有名な話ですね。

 かくして仏教においては、牛乳や乳製品は非常に貴重な慈薬として尊ばれる。例えば、仏教では牛乳からつくられる酥、酪、醍醐をもってその教えの階段にたとえられ、天台宗は『涅槃経』において醍醐をもって第五時の法華涅槃にたとえ、
真言宗では『六波羅蜜経』において、これを陀羅尼蔵に例え(…)

同上 ※陀羅尼蔵(だらにぞう)は呪文のように力を持つ梵語だといわれる

 上記にある酥とは『日本古代食事典』によると

牛乳を煮つめて作った、ほぼ固形状のものである。
平安時代の漢和辞書『和名抄』は「酥」について「俗音、牛羊乳所為也」と説明している。つまり、酥の原料は、牛や羊の乳であるが、ほとんどは「牛乳」を用いて作られていた。

『日本古代食事典』(東洋書林)永山久夫著

 と、書かれています。ただ『和名抄』には具体的な製法は記載されておらず、平安時代の『延喜式』に作り方があるようです。そして著者の永山さんは実際に酥を作ってみたそうなのですが

味はきわめてよく、上等なチーズケーキかミルクキャラメルのような甘美なものであった。

同上

 と書かれています。おお! チーズケーキ! もしかして平安時代の人はそれとは知らずにすでにチーズケーキの味を知っていたのかもしれません。

 とはいえ、日本ではチーズはあまり普及されませんでした。

当時(七世紀頃)の牛乳その他の乳製品は、普通の日常飲料ではなく滋薬として用いられ、しかも牛乳や乳製品の利用は天皇一家や貴族、ときには僧侶のあいだに限られていた。そしてこのようにそれらが薬餌の一種と考えられ、しかもその利用が上層社会にのみ限られ、一般には閉ざされていた状態は、その後、徳川時代にいたるまでの長いあいだつづいていた。その結果、日本における牛乳や乳製品の利用の普及は妨げられ、ひいては日本における酪農の発達も阻害されることになった。そしてこのような牛乳や乳製品の利用の制約が解消されて、それらが一般大衆の日常の栄養食品として利用されるようになったのは、やっと明治時代になってからである。

『日本畜産史』(法政大学出版局)加茂儀一著

 明治まで牛乳も牛肉も一般の人たちには浸透していなかったようです。

 西洋をモデルとした文明開花の波が、一つの頂点に達しようとしていた明治四年(一八七一)一二月、宮中において古代に定められた肉食禁止令が解かれた。これについて『明治天皇紀』は、「乃ち内膳司に令して牛羊の肉は平常これを供進せしめ、ぶた・鹿・兎の肉は時々少量を御膳に上せしむ」と記している。

『歴史のなかの米と肉』(平凡社ライブラリー)原田信男著

 では、日本ではじめてチーズケーキを食べたのは誰なのでしょう。明治まで誰も口にしていなかったのでしょうか。

大坂城医にして博覧強記と謳われた寺島良安が正徳五年(一七一五年)に著した、当時の百科事典ともいえる『和漢三才圖會わかんさんさいずえ』や西川如見(忠英)の手になる享保四(一七一九)年の『長崎夜話草』といった江戸中期の書に、以下の如き南蛮菓子を読みとることができる。

『万国お菓子物語』(講談社学術文庫)吉田菊次郎著

 これらの書にはコンペイトイやボーロ、カステラなどが書かれているのですが、そのなかにケジャトというお菓子がでてきます。これがポルトガルのチーズケーキ「ケイジャーダ」ではないかと吉田氏は書いています。

 そしてさらに、西欧のものなら何でも興味を示した織田信長なら口にしていたかもしれない、と吉田氏は予想しています。

 ただ織田信長が口にしたという資料は見つかっていないようなので、あくまでも「かもしれない」話ですが、考えるだけでチーズケーキの味に深みが増しそうですね。

 ちなみに、ケイジャーダなら現代の私たちでも口にすることができます。時折忙しい合間をぬってケーキ屋さんに足を運ばれると仰っていた内澤さんならご存知かもしれませんが、ナタ・デ・クリスチアノのケイジャーダ、これがおいしいのです。ちょっとトースターで焼くと皮がぱりっぱりでバターの良い香りが漂って、濃厚で最高です。

 ケジャト以降日本におけるチーズケーキらしき文献が見当たらないようですが、明治に入ると『食道楽』にチーズソフレー(スフレ)が登場します。ただ、当時チーズは好まれていなかったようです。

「(…)西洋料理の後で出るチーズなどは、たいがいのご婦人は最初におきらいなさいますね」「チーズですが、あれは私も閉口で、がまんにもいただけません」

『食道楽』(中公文庫)村井弦斎、村井米子著

 さて、では現代のチーズケーキ。これは日本においてアメリカの影響が大きいのではないでしょうか。それにしてもチーズもピザもベーグルも、いまやアメリカのイメージが強いですよね。

ベーグルはクリームチーズを塗ってそれに燻製の鮭(ロックス)を挟んで食べるのが普通の食べ方ではあるが、クリームチーズの生産を始めたのはユダヤ人ではなかった。一八七二年にニューヨーク州西部でキリスト教徒の酪農家が最初に作り、一九世期末には東欧出身のユダヤ人が故郷で食べていたものに似ているということで好んで食べた。今日日本のスーパーマーケットにもあるフィラデルフィア・クリームチーズのブランドもこの頃売り出された。一九二〇年代末にはクリームチーズの製造は大食品企業クラフトが支配し、ラジオの宣伝もあってクリームチーズの消費は全国的に拡がった。

『世界の食文化アメリカ』(農文協)本間千枝子・有賀夏紀著

 アメリカでクリームチーズの消費が拡がった一九二〇年代、その頃日本では『チーズケーキ本』(昭文社)によると若林ぐん子さん『歐米の菓子と料理』が刊行されました。そこにはチースケーキが紹介されているようです。チーズではなく、チースなのですね。そして『チーズケーキ本』に一九四六年には銀座「ケテル」にてレアチーズケーキと焼きタイプチーズケーキが販売されたとあります。なんと一般の人たちに浸透したのは昭和になってからの話だったんですね。

 と、今回もやたら食の話ばかりになってしまいました。

 内澤さんは音楽家なのでやや申し訳ない気持ちになるのですが、インタヴューで『You』の歌詞や音作りを厨房で仕込んでいるみたいと言われたあと内澤さんは

そうですね。調味料を加えて、ああでもない、こうでもないと言いながら料理を作ることと一緒というか。だからドラムの激しいロールがありますけど、それはまさに自分の中での葛藤を表していて、そしてサビでその迷いを少し解放してるという。

『androp file 2009-2014』Talking Rock!

 と仰っていましたね。今回のケーキの話、内澤さんの音楽や歌詞に少しでも何かお力になれたら、と勝手に思っております。

 さてさて、今回もまた長くなってしまいました。今日のケーキ話、ずっとチーズだったので、内澤さんの弟さんがお好きな(そして内澤さんご自身もお好きな)チョコの曲で締めましょうか。

 この歌を聴くとまるで伴名練さん『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)にある、真夏なのに窓の外は雪景色、なんてイメージが浮かびます。
 寒い冬の歌なはずなのに、甘くあたたかい『C』で締めましょう。

 では、また。


 


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