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「メンやば本かじり」他者の柱を調べ、自身が壊屋だと知る編

「メンタルがやばいときは、本をひとかじり」、わたくし頑張っております。

 かれこれ一年以上続いております、

 と報告する気満々だった。

 だったのですが、諸事情により中止となりました。ご了承ください。

↓中止原因

週一更新だがら、えーっと……たぶん一年ではないねの図

 なんやー思ったより少ないなー。でも二八週間連続メンタルやばいってのは、二八週間連続アルバイト遅刻くらいの緊張感はあるな。

 よしよし、今日もメンタルがやばいままいってみよう。さて、どれくらいメンタルがやばいのか、チェックが必要だ。残念なことに、会話をしてくれる友人がいないので、本の中で比較対象を探すしかない。ちなみに、友達は随時募集中だ。

 ところで、あなたはカタカナがお好きだろうか?

「あっ、そんなこと急に聞かれましても」みたいな顔をしましたね。いやあ、聞いておいてなんですが、私もそんな顔をしていたんですよ。

 奇遇ですね。

 じゃあ、仲良く話を進めていきましょうね(強め)。

 今回紹介したい小説は、カタカナにアレルギー反応を示す建築家、牧名沙羅が主人公だ。おお、なんだかやばそうだ。

私はカタカナをデザインした人間とは酒が飲めない。美しさもプライドも感じられない味気ない直線である上に中身はスカスカで、そのくせどんな国の言葉も包摂しますという厚顔でありながら、どこか一本抜いたらたちまちただの棒切れと化す構造物に愛着など持てるわけがない。

『東京都同情塔』(新潮社)九段理江 著

 カタカナについて、こんな印象をもったことがなかった私は本書によって「他者」がいることを改めて思い知らされた。なーんて言うと、私が独我論者と思われそうだがそういうことではない(と信じたい)。自分にとって理解ができない他者はいると知っているが、それは自分が認知できる範囲の理解ができない他者であって、域を超えた他者は私のなかでは存在し得ないのだ。

 アニメ『葬送のフリーレン』で「言葉があるんだ、話し合いで解決するならそれに越したことはない」といった会話のとき、フリーレンが「無駄だね」とばっさりと返すあの感覚を彷彿とさせる。

 同じ日本語を使っているからといって、感覚を共有できるなんて簡単に思ってはいけない(まあ、フリーレンの場合は魔族がなぜ捕食対象である人間の言葉を使うのかとかそういう話なので、ここで例としてあげるのはいささか強引だったかもしれない)。

 言葉に対する接し方がこんなにも違う相手がいるなんて! 主人公である牧名沙羅のカタカナアレルギーは衝撃的すぎた。

菜食主義者=ヴィーガン。少数者=マイノリティ。(…)複数性愛者=ポリアモリー。犯罪者=ホモ・ミゼラビリス。……ずさんなプレハブ小屋みたいなその文字たちを、冷やしたミネラルウォーターに浮かべて口の中で転がしてみる。

同上

 プレハブ小屋って。そこまで言うか、と思ってしまうが彼女にとってカタカナとはそれほど美しくないものなのだろう。

 ここで、ちょっとだけ話を聞いてほしいのだが、牧名はヴィーガン=菜食主義といっている。しかし、ヴィーガンは完全(あるいは純粋)菜食主義であって、菜食主義はペスカタリアン(野菜と魚介類を食べる人)やラクトベジタリアン(野菜と乳製品)、フレキシタリアンも含むことになる。

ヴィーガン(vegan)とは肉や卵、牛乳、チーズやバター、魚介類などの動物由来の食べ物を一切食べない食生活をする人のことだ。それに対して、ベジタリアン(vegetarian)は、肉は食べないが卵や牛乳などの乳製品は食べる人なども含む広い呼び方である。

『なぜヴィーガンか?』(晶文社)ピーター・シンガー 著 児玉聡+林和雄 訳

 完全菜食主義と菜食主義の間には、大きな壁がある。例えば、トレーニングは週一程度、練習試合は半年に一度の草野球チームの選手が、「まあ、自分も同じ野球選手として大谷選手の苦労は痛いほどわかるし」とか語りだしてきたら会話の途中で抜刀せんとばかりに私の手はぶるぶる震えだすだろう。それと同じくらい、菜食主義が完全菜食主義と一緒にされると「ご勘弁してくだせえ、ヴィーガンのみなさんと一緒だなんて恐れ多いでやんすー」(電ボ三十郎の声で脳内再生をお楽しみください)とフレキシタリアンの私はごーりごーり地面に額を擦り続けながら、弁解したくなるのだ。

 と、菜食主義のこととなると熱が入ってしまった。

 話を『東京都同情塔』に戻そう。

バベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする。

同上

シンパシータワートーキョー? 
名前のことを考えるのはもちろん建築家の仕事の範疇を超えていたし、疑問を持ったところで状況を変える権限もないのに、水圧の強いシャワーを顔に受けた瞬間、
シンパシータワートーキョー
の音、文字の並び、意味、タワーの周囲を取り囲む権力構造、何もかもが気になり始めて、もう元には戻れなくなった。

同上

 シンパシータワートーキョーとは、牧名がコンペに参加しているまったく新しいコンセプトの刑務所だ。刑務所なので収容されるのは犯罪者だが、ここでは罪を犯して服役する人を犯罪者とは呼ばず、ホモ・ミゼラビリスという。

ホモ・ミゼラビリスとは、社会学者で幸福学者のマサキ・セトが提唱した、比較的新しい概念です。セトは著書『ホモ・ミゼラビリス 同情されるべき人々』において、従来「犯罪者」と呼ばれ差別を受けてきた属性の人、また刑事施設で服役中の受刑者、非行少年を指して、その出自や境遇やパーソナリティについて「不憫」、「あわれ」、「かわいそう」といった同情的な視点を示し、彼らを「同情されるべき人々」、つまり「ホモ・ミゼラビリス」として再定義しました。

同上

 確かに、犯罪者イコール極悪人とするのは短絡的だ。宗教二世による壮絶な人生、毒親による洗脳と虐待、悪質で執拗な虐め、これらから逃れるために犯してしまった罪。「そういった問題を解決できないのは自己責任だ。周囲の環境なんて関係ない」と言う人たちに私は賛同できない。育った環境、周囲の環境の影響はかなり大きい。また、相手が悪影響を及ぼしてくることだけが、自分が罪を犯すリスクがあるわけではない。私が子供の頃に罪について考えさせられたはじめての作品である『高瀬舟』。あの物語に、犯罪者と呼べる人物はいるのだろうか。

 生まれてから死ぬまで、自分はどんな些細な罪も犯すことは決してないと言い切れる人はどれだけいるのだろう。そもそも、生まれた場所、時代によって「罪」は変わる。

『東京都同情塔』において、罪を犯さずにいる人は「幸せな人々」、「祝福された人々」を意味するホモ・フェリクスと呼ばれ。偶然、罪を犯すことなく生きられる環境に生まれただけ、そういうことだ。
 よって、罪を犯した者、ホモ・ミゼラビリスは、『レ・ミゼラブル』のジャンバルジャンが銀食器を盗んでも許されたように、彼らは服役するのではなく「シンパシータワートーキョー」にて幸福に暮らすべきだと幸福学者のマサキ・セトは訴える。つまり、牧名も含めたコンペ参加者の完成予想図は、牢獄ではなく幸福を味わえるような快適な空間だ。ホモ・ミゼラビリスが幸せに暮らせる、罪など犯す必要のない世界をそこに実現するための塔。

 ただ、牧名は幸福学者マサキ・セトの思想を完全に支持し、ホモ・ミゼラビリスが幸福に暮らすことを願ってコンペに参加しているわけではなさそうだ。

「牧名さんは、ホモ・ミゼラビリスのことをどう思ってるの?」と質問を変える。「レイプ犯や殺人犯が幸福に暮らすための塔を、本当に建てるべきだと思う? こんな都心のど真ん中に、カタカナ英語の塔を建てて、ソーシャル・インクルージョンか、ウェルビーイングかわかんないけど、なんか全部が公平に、平等に、良い感じなっていくのかな、この先」
「私に訊かれても困る。犯罪とは無縁の人生だったもの。意見する立場にない」(…)
「私にはわかるの。それについて一度でも口を開いたらきっと、言うべきじゃないことを言ってしまう(…)」

同上

「言うべきじゃないことを言ってしまう」と口にしてしまうということは、彼女はマサキ・セトの活動に与することに微塵の迷いもないわけではない、ということだろう。

 私も、自分の愛する人を傷つけられ、或いは失って、その傷つけた相手が幸せに暮らすことを受け入れる自信がない。自信はないくせに、犯罪行為に至る背景は知るべきだとも思っている自分もいる。

 矛盾しているとか、自分のときは許せないくせに他人が被害者のときは許せとか都合が良すぎるだろとか、人から指摘される前に自問自答がはじまってしまう。

 この、不安定な地盤よ。ああ、ぐらぐらと揺れている。

 牧名はマサキ・セトの世界を完全に許容したわけではないが、その世界を実現するためのタワーを生み出してしまう。しかも、タワーのコンセプト以上に彼女には受け入れ難いものがあった。 

「あわれな、
 同情されるべき、
 ホモ・ミゼラビリス」
生まれて初めて発声したそれは、語感だけでいえば決して悪くないと思った。少なくとも私の言語感覚はその言葉を発声することに対し、アレルギーを示さなかった。

同上

 ホモ・ミゼラビリスという言葉は発声することに拒絶はなかったという。逆を言えば、発声することを拒む言葉があるということだ。それが、牧名のなかでは、シンパシータワートーキョーとなる。

「でも『シンパシー』を許容することはできない。日本人が本格的にばらばらになっちゃうもの。待って、こういう発言は右っぽいからやめるべき? でも私には未来が見えているんだよ……日本人が日本語を捨てて、日本人じゃなくなる未来がね。(…)」

同上

 彼女は「シンパシータワートーキョー」というネーミングセンスを「狂っている」とまで表現する。そんな彼女に対して、友人である美しい容姿を持つ青年拓人は「シンパシータワートーキョー」に対し「東京都同情塔」という名をつける。

「見て。東京+都、同情+塔。語の構造はシンメトリーだし、音的にも綺麗な韻を踏んでいて、刑務所にふさわしい適度な厳しさも含んでいる。(…)シンパシーなんちゃらなんて、比較にもならないじゃない? 骨組みがガタガタで、ホモ・ミゼラビリスだって安心して住めない。少なくとも私は住めない」

同上

「名前は物資じゃないけど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる。本当よ。(…)」

同上

 牧名は言葉に対してとても敏感だ。彼女はシンパシータワートーキョーではなく、東京都同情塔こそが自分の設計する塔にふさわしいと考える。

 同情、塔。

 話が少しそれるが、新渡戸稲造は『武士道』において他人との共感に同情をあげている。

他人への共感  
(…)たとえば、あなたが照りつける日差しの中で、それをさえぎる蔭もないままでいるところにひとりの日本人の知り合いが通りかかるとする。(…)「あなたは日差しを浴びている。私はあなたに同情する。私の傘が十分広かったならば、あるいは、私たちが家族同様の仲だったならば、喜んであなたを傘のうちに入れてさしあげたいところだが、あいにく、それはかなわない。せめてあなたの辛さをわかちあいたい」

『新訳 武士道』 (角川ソフィア文庫)新渡戸 稲造, 大久保 喬樹著
※太字は川勢によるもの

 日本人が日本語を捨てたら、日本人ではなくなる、そう語る牧名が「同情塔」という言葉を受け入れるのは、もしかして日本人特有のものなのかもしれない。

 特にカタカタはその形だけでなく、発音もときに嫌う牧名。外国の言葉を無理やり日本語にして取り込もうとすることに拒絶感をおぼえるのだろう。

日本人が日本語を捨てたがっているのは何も今に始まった話ではない。一九五八年、日本電波塔の愛称に「東京タワー」が選ばれたのは、名称審査会の中に日本語を忌避した日本人がいたからだ。

同上

 東京タワーと聞いて、日本語を捨てたがっているという発想が私にはない。ここも驚きだった。ただし、東京タワーという名称について牧名は許容している。一般公募で多くの支持を集めた「昭和塔」という名称は、もし決定していたら現在では時代遅れの名となっていただろうと彼女は言う。

 牧名は、カタカナを拒む一方で、カタカタを受け入れている。そもそも、彼女の仕事に取りかかる前のルーティンに、ピラティスと、ビョークの「カム・トゥ・ミー」をフルコーラス、そしてオリジナルのマントラを唱えるというものがある。

 どれもカタカナだらけだが、それが彼女の集中力を高めるものらしい。

 なぜ?

 ここで私の頭は疑問で支配されてしまう。

 なぜ、日本語だけの歌詞を歌わないのか。カタカナが一文字も使用されていない歌はたくさんあるだろうに。ぱっと私が思いつくのは、andropの「Roots」だ。

 まあ、タイトルこそ英語だが、歌詞の中にはカタカナ(和製英語)も外国語も一切含まれない。

  さらに、なぜピラティスなのだろう。巫女舞などではいけないのだろうか。あのゆったりとした動きは、深い呼吸もできるし、意外と良い汗もかく。

 そしてマントラ。なぜマントラ。日本語を捨てないために、祝詞では駄目なのか。

昔の人の思考では、祝詞を唱えることによって、時間と場所の移動が自由自在であったというのである。

『神道入門』(ちくま新書)新谷尚紀 著

 そういえば、映画『すずめの戸締まり』で草太が唱えていたのも祝詞だった。心を時間や場所から解放し、災いや不浄を取り除く、それが祝詞だ。日本人が日本語を捨てる未来を予想しつつも、牧名が祝詞に興味を持たないのは、彼女はカタカナにアレルギーを持ちつつも、包摂しようとしている部分を持っているからではないか。

 そもそも、『東京都同情塔』において、牧名沙羅のルビがカタカナのマキナサラになっているのだ。もちろん、作者の九段理江さんは建築家牧名沙羅ではないので、カタカナアレルギーではないが、カタカナを嫌う登場人物のルビがわざわざカタカナなのだ。これは一体どういうことだろうか。

 さらに、本書には謎が他にもある。好書好日に掲載されている鴻巣友季子さんによる書評にも書かれていることだが、登場人物が同じような「言葉」を使用する場面がある。

 例えば、牧名沙羅とマサキ・セト。言葉が世界をばらばらにすると二人とも語っている。

バベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする。

同上

 これは上でも引用したが、牧名の台詞だ。続いてマサキ・セト。

今となっては、言葉は私たちの世界をばらばらにする一方です。

 そして牧名の友人である拓人、そして東京都同情塔のコンペに勝った牧名にインタヴューをするアメリカ人ジャーナリストのマックス。

 まずは拓人の台詞から。

「この暑さ異常でしょ。本当にこんなところでオリンピックをやったなんて信じられない」

同上

 続いてマックス。

「It's so insanely hot. I can't believe they actually held the Oiympics in this city」

同上

 同じ人間なんだから似たような言葉を使うのは当然だろう。言葉は無限ではなく、有限であり、違う人が同じような言葉を発しても不思議はないのだ。しかし、同じような言葉を発しているからといって、考えが同じとは限らない。そして互いを受け入れられるかというと、またそれも別の問題になってしまう。

 言葉とはいったい何なのだ。

 言葉がなければ、どうやって相手の気持ちを知ることができるのだろう。だが、言葉があったところで気持ちが理解しあえるわけでもない。

 ただ、言葉がなければ確実に現在の経済活動は破綻するだろう。では、言葉は経済活動のためだけに使用すべきなのか。それはあまりにも生きていて虚しいではないか。

 私は、言葉によって傷つき、気持ちを汲み取ろうとし、自分の感情を表現しようとする。

 言葉、それはある種の麻薬のようなもので、これを使えば幸福感を得られ、豊かになると信じ、実際は心が蝕まれているばかりなのではないか。

 それでも、私は、まだ伝えたい言葉がある。聞いてほしい言葉がある。

 人と人がばらばらになってしまわないように、繋がるように、言葉で祈る。

 シンパシータワートーキョー、或いは東京都同情塔は、あなたに何をもたらすのだろう。

 どうか、本書にある言葉を確かめてみてほしい。


■書籍データ
『東京都同情塔』(新潮社)九段理江 著 
 難易度★★★☆☆ 芥川賞受賞作。AIが作成した文章を取り入れたことでも話題に。

 人間とAI、建築家と建築反対派、犯罪を犯すもの、犯さずに済んだもの、日本語が失われることを危惧するもの、親日家の外国人、さまざまな事象や感情が入り混じるのに、とてもシンプルな世界として受け入れてしまいそうで、ある意味ぞっとする作品だ。本書の感想はたった一度読んだだけではとてもじゃないが何も書けない、と私は思った。なので、何度も何度も読み直したがまったく飽きない、静かなる怪物作品。


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