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俯瞰しすぎるなら、その世界に入りこむ瞬間もほしいなあ~表現について~

 その世界に入りこみ、ひたって感傷的になると、すぐ俯瞰してしまう私が「それ良いと思っているの?」と声をかけてくる。
 だから昔からピアノを弾いていても、母に「気持ちをこめて弾いて。もっと気持ちを乗せて」と言われ続けて、うまくできなかった。
 学校の教科書の音読も、棒読み。
 演劇部の演技とか、舞台で楽器を演奏する友達とか観ていると、ほわんと憧れを抱くのに、自分にはできないと強く信じていた。
 大学生になってカラオケとかも、できるだけ入りこまなくて済む単調な曲を選ぶ。
 何もかもを無難にこなして、「入りこんでいる」と笑われないようにした。上手でも下手でもないそこそこのラインにいようとして。結果、どちらかと言えば下手な側に行っていると何となく気づいてもいたけれど。
 帰国子女だったことも影響しているのかもしれないし、気質的なものもあったのだろうか。

 そうやって大人になってしまった。

 少し変化が訪れたのは、息子に絵本を読み聞かせしている時。
 その世界に入りこんで読むのが面白くなってきた。
 夫とテレビ番組や何か舞台の鑑賞をしながら「良かったね!」の後の「何が良かったんだろう」と話す時。その世界に入りこんでいる様子に心動かされたと理解することが増えていった。
 それはちょっとくらい下手でも同じだった。
 上手か下手かで言えば、ちょっとくらい下手でも良いのだ。無難にこなされると意外と興ざめするとも気が付き始めた。いっそ入りこんで下手なくらいが気持ち良い。

 ヴォーカルレッスンを始めた時、「かわせみさんは、表現するのは好きですか?」と聞かれた。
 「?? はい。好きです」と答えたけど、意味がよくわからなかった。文を書くのが好きだから、表現するのが好きってことなのかなと思った。
 でも「はい」と言ってから、ホントに私そうなのかなあ? と心に残る。
 だってヴォーカルレッスンで、大勢の前では歌いたくないと先生に最初から言っていた。
 「表現」て自分を表すから、文章でも自分が出ているはず。でもにじみ出るものだけじゃなくて、積極的に自分を開示するような欲求だとかエネルギーだとかって、私にあるのだろうか。

 立ち止まって考えてみれば、以前は文にしてももっと入りこめていなかったし、読まれることに抵抗あった。
 自分の「すべて」の意味じゃなく、さらけだす。それが怖くて表現の仕方に自信がない。
 書いていくうちに、没入し自分を表現するようになってきてはいるけど、上手かと言ったらまだそうでもない。
 書いた詩を載せるようにしているのも、そういった練習もある。素直に表現するための慣れというか。

 入りこんでいる自分と言っても、酔いしれてしまっては良い表現ができない。酔ってしまうと、これで良いのかどうか周りが見えなくて自分だけが満足して終わってしまう。客観性をすっかり失ってしまっては頭を冷やさないといけないよ。だけど私のバランスって客観性重視でやってきてしまったからなあ。

 上手に表現できるようになるまでは、時には酔ってしまって良いとも思う。一度は入りこんで酔って失敗に気づいて加減を知る。最初からその加減がわかっている才能のある人は別なのだろうけど、私はきっと何度もやらかさないと加減がわからない。

 あれもこれも、行ったり来たり揺れながら、ちょこちょこと心がけて自分で修正し、ゆっくり、すこーしずつ改善したい。

 ちょっと前、友人と話していて、文を書くことについて聞かれた。彼女は書くこと自体どこか気恥ずかしいのだけど、入りこめないからかな。と言う。スパッと意見言える方がカッコいい気がしちゃって。とか。

 うーんそうか。
 私はそこを表現しようとがんばっているのかもな。
 だって書いて読んでもらうのって恥ずかしいと最初は特に思っていた。
 特別なことじゃなくても、全部じゃなくても、素直な心の内をなかなか伝えきれなくて、ああでもないこうでもないと、ずーっと試行錯誤しながら練習している。
 どうにかできるだけ伝わるように。言葉足らずでは誤解されるから、スパッとカッコ良くならなくたって、説明をいとわないようにしたい。
 そのための工夫を重ねているのだな私は。

 才能もなければ、教わっているわけでもない。何か特別に目的や目標がなくたって、それでも上手になりたい欲求はわいてくる。
 だって心にあるものが誰かに伝わればうれしいんだもん。大勢じゃなくたって、やっぱり人の目があってこそ自分にも張りができているのだとも気づく。

 親しい友人と交わした言葉のおかげで、自分が書き続ける理由に気が付いた。特に理由なんかいらないとも思うのだけど、でも私にはそんな理由があったのかって話しながら知って。

 すんごいゆっくりな歩みで、年月かけて進もうとしている自分が少し誇らしくなった。
 実際にはまだうまくできていなくてもさ。

 ヴォーカルレッスンでも、大して上手になれない私は少しでも入りこむように邪念を振り払って声を出す。歌が上手だなと感じる人たちだって、音程がただ取れているだけではない。伝わってくる世界観は、その人の表現力から。照れていたり無難に歌っていたりしたら、聴いている側にその感動が伝わらない。

 ピアノの練習も。
 気持ちこめて入りこんだ方が楽しいと気づいている。

 この前、私が練習している曲を上手に弾ける人の動画を観て驚いたもん。

 うおぉ……私が弾いているのと、ちがう曲みたい。
 簡単な曲なのに、こんなに魅力的に聴かせるなんて、表現力以外の何ものでもない。

 つまらない表現力しか持てなかった私が、どれくらい自分の内側を表に出せるかで言えば、ピアノも歌も文章も似ているのだ。
 照れだとか俯瞰している自分だとかを振り払って、没入する瞬間が自分の中にほしい。

 だから今日も書くし、歌を歌うし、ピアノも弾く。私にとって表現するのはきっと自分の中にある世界を伝えることなんだな。



読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。