言葉そのものだけじゃない、気持ちが伝わる時~うれしい言葉もイヤな言葉も~
「気にしすぎ」とか「考えすぎ」とよく言われる。
よく言われてきた。
きっとこれからもよく言われる。
たぶんなんだけど、あれって「大丈夫よ!」の意味をこめているのよね。
と思いたい。
「前向きに励ましてもらえた」と受け取りにくいのは、きっとHSP(highly sensitive person)あるある。何度も言われてきた言葉だし、気になってしまうことや考えてしまうことを、いくら頭から振り払おうとしても貼り付いているからで。
貼り付いているものをはがそうとしても取れなくて。
なのにその貼り付いていること自体を否定されている気がしてしまう。考えてしまう自分がダメのような。
特性のうちの一つとして「痛みに敏感」の項目も見かけるけど、これも思い当たる。
幼少期から「すぐ痛がるのねえ」と言われた。
生理痛が強くて病院に行くも、原因が見つからず「もしかしたら痛みに敏感なタイプかもしれません」と、HSPについて世間でまったく言われていなかった35年ほど前、15歳頃に言われた。
えええ。そんなことある? 冷や汗出るほど痛み苦しんでいるのに。
と思ったけど、40歳くらいにようやくHSPの項目を見て何だか納得。
きっと悪い所を見つけるのが早いから良いことなんだ。
そう思おうとしてもさ。もう少し鈍感でいたいのも本音。
お腹の痛みが気になって病院をめぐった。
実は昨年末から気になっている。
最初はかかりつけの内科へ。息子もお世話になった信頼する先生。
レントゲンを撮ってもらい、その白黒の写真を見て「ガスだらけ」とお医者さんと二人で笑った。
そりゃ痛いかもねーって整腸剤もらう。
更年期に入っているからでもあるらしい。ほぼ生まれつきで自律神経の調整が苦手な体質と言われていたのに、更年期で全然コントロールできていない。
その後も良くならない。
不安に思ったため婦人科へ。
一つ目の検査し、漢方薬をもらう。
続けていてもまだ痛いから、次はそれについて切実に訴えようとしたら、先生がダウンしたらしく、お休みに入ってしまった。
何か月もお休みするものだから、先生のことも心配になるも、痛みはおさまりきらず、別の婦人科へ。
もう一つ気になっていた検査。
やはり問題なく。
そのうちにお休みしていた先生が復帰。
悪くはなっていないのだったら大丈夫と思うけれど。と言いつつ漢方薬を変えて数か月ほど何度か通いながら様子見。
その後、症状が悪くなった気がして、またかかりつけの内科へ。ある程度診察をし、「大丈夫と思うけど、心配だろうし、しばらく検査していないなら採便しておきましょう」と言われる。
不安になって内視鏡検査をした方が良いのではとさらに胃腸科へ。すると内視鏡もエコーもここではやっていないと言われ「なんでサッサと他のところで検査しないの」と何だか怒られる。
そこはかかりつけの婦人科の親族で、「胃腸科ですよ」って紹介されていたからそういった検査をする医院だと思ったんだい! -とは言わなかった。
だって調べなかった私が悪いのかもしれないから。ーなんて、そんな風に思ってしまうところでHSPらしさを発揮してしまう。
「あっ。内視鏡やってないんですね」とついビックリした私の反応を見てから「それでここに来たのね」と少し落ち着いていらした。
内視鏡検査をしている病院の紙を渡されると、10年ほど前に何度か胃カメラ検査をしたところも載っていた。
ちょっと遠いのよね。でも胃カメラがすごく上手で看護師さんたちも感じ良かったしそこにしようかなと思う。
もらった紙を下まで読み進めると「勝手に判断して大丈夫と思うな!」などの内容が強い調子で書かれていて、なんで紙にまで怒られなくちゃいけないんだとイヤな気分になる。こんなことで落ちこんで頭に残り続けるのもまた特性なのかしら。
トイレが近いのも気になって念のために泌尿器科にも行く。
私がトイレ近いとか夜中に起きるとか訴えるも検査結果は問題なし。全部更年期と、精神的なものからなのだろう。
お腹を押されて「ここ固いのあるでしょ。腸だよ」と言われ、でも痛い所は腸のあちこちにあってそこだけじゃないし、固い所が何なのか触っただけではわかんないよ! ふだん自分のお腹しか触らないし、痛い時しか触らなかったから、こんなもんかなと思うもん。なんて、とっさには言葉が出ない。「ここ(泌尿器科)じゃないでしょ。消化器科でしょ」と鼻で笑われて、またも気分を害して病院を出る。
なんだよ。心配だから病院行くのに、なんで怒ったりバカにしたりするんだ。そっちは大勢をみているだろうけど、こちらはたった一人の身体なのだよ。ムカムカするも、信用の置ける先生の素晴らしさも知っているので、解明するまで根気よくいなければと言い聞かせる。
とは言っても我慢できず、夫や母に愚痴を聞いてもらう。
幼少期から身体が軟弱だったから病院通いは欠かさなかったけど、ここ何年かは感染症が怖くて行けなかった。市内の大病院も、個人病院も、次々と感染者が出たとニュースがくり返されたものだったし。
夫には生活習慣病があり、私は血液で免疫力が弱いとわかっているし。
でもしばらく病院行かないと、次また通い始める時って、ものすごく億劫なのね。それでも心配と、良くなりたい気持ちで、がんばって訪れる。
いよいよ内視鏡検査してくれる消化器科へ。
この先生は、以前胃カメラで上手な印象。ただ遠いやら高齢の方々の診察で世間話もして長いのだ。内容が聞こえてくると微笑ましいけれど、待つ方としては長く感じるので少し敬遠していた。
でもその先生が私の話に、一通り耳を傾けてくれて、言った。
「たぶんね、気にしすぎ」
えっ。
よく言われます。
二人で笑った。
この時の「気にしすぎ」ほどありがたかった「気にしすぎ」ってなかったなあ。
それまでめっちゃ心配で、よけいに毎日お腹の下の方が痛くなるようだった。悪循環で、気持ちもにっちもさっちもいかなくて。何とか明るい気持ちでいたくても、悲愴な雰囲気が出てしまうのも自覚していた。
言葉って「こういう言い回し」「あの単語」を安易に使わないでと言われる。「大丈夫」とか「がんばって」なんかは最近特に。でも時と場合、状況や相手によってはありがたかったり、うれしかったりするのよね。
自分の文を載せる時は気を使うにしても、誰かと気軽なやり取りをする時に、それほどその言葉自体にとらわれなくて良いのではと思う。
以前の私も「素敵」「すごい」「わかる」「好き」のような肯定的な言葉すら、やたらに使われたら疑わしく思っていた。
なにかを説明する時は言葉に工夫が必要だけど、ただ気持ちを伝えたいのなら。気軽に伝えられる相手なら。私はかまわないな。表面的にくり返されるとその人を信じられないけど、その言葉の奥の、その人の気持ちを感じられたらうれしい。
「気にしすぎ」も、一生懸命考えている最中の人に向けるのは時に残酷だけど、不安でいっぱいの人に伝えるのは、声の調子とかその言葉を出すタイミングとかでそんなイヤな言葉でも悪い言葉でもない。
そんな風に思って、気にしすぎな私の心も軽くなった。
検査が終わるまでは本当のところなんて誰にもわからない。だけど、どうせしっかり検査をして結果が明らかになるのだったら、それまでは心配していても仕方ない。
本人が不安がっているかどうかなんて、話せばわかるもの。
それなら検査結果がわかるまで、気にしすぎないでとリラックスさせてくれる言葉がありがたい。
そこには、言葉そのもの以上に、先生たちの気持ちが乗っかっていたからなのだろう。
「気にしすぎ」と言われて笑った私は、心が軽くなったものの結果がわかるまで結局よく眠れない日々だったわけで。
今は一通り検査を終えて、見える限りでは何でもなかったとわかって良かったけど、痛みはまだ時々起きる。病院通いは続き、それに関しては何年か前までの日常が戻ってきた。