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節分豆を見て思い出す人たち

 50粒以上、節分豆を食べなくてはいけなくなっている。もう口の中が水分とられ過ぎてモソモソになっちゃう。何年も前から、何回かに分けて食べている。

 子供の頃は「もっと食べたいな。全然足りない!」と思っていた。
 20代の頃も「まだ食べられる。物足りない」と思っていた。

 食欲と胃の元気さと数えるのと、バランス取れていたのって30歳前後?
 そろそろ適当な大豆料理として食べたい。数えるの面倒くさくなってきたなあもう。今後はもう楽しめないかもしれない。それともムキになって数え続けようかな。

 ところで日本にお住まいの方は豆まきってしてらっしゃるのかしら。

 宝塚で暮らしていた子供の頃は、翌朝登校する時に道ばたのあちこちで豆を見たものだ。だけど、この辺で豆まきしている人いなさそう。するとしても、家の中で楽しんでいるのかな。

 以前も書いたことあるけど、息子が幼い頃。ウチで豆まきをする時は外に向かって全力で「鬼はあ~そとおおぉぉー!!」と叫んでくれたものだった。アパート中に響き渡る声で。幼稚園で鬼に追いかけ回されたので、よほど怖かったのだろう。
 でも全力投球する豆は一粒。「えっ。一粒? もっと投げて良いんだよ」と言うと、「それじゃあ」ともう一粒取るだけ。
 声の大きさと投げる量のバランス! と笑いたくも、本人は大変な真面目顔なもので。できるだけ笑いをこらえるのだけど、かわいすぎて時々「うふん」と声がもれてしまう。

 家の中で落花生をぶつけあったこともある。夫が鬼のお面をつけて登場すると、さすがに「お父さん」とわかっている息子がうれしそうにウヒャウヒャ笑いながら落花生をぶつける。「今度は僕が鬼やりたい!」と息子が鬼のお面をつけるけど、身体のサイズが可愛すぎる。落花生であってもぶつけるのがしのびなくて、遠慮がちにやさしく投げてしまう。

 そんな息子も小学生になると、まいてくれなくなった。

 でも私はまき続けた。もう強迫観念。
 まく時も強迫観念みたいなものにつきまとわれて、全部の窓からしないと気が済まなくなってしまい。夫にその話をしたら「それは苦しそうで大変」と心配された。そんなに「やらなければ」にとらわれてまくものではないと頭ではわかっているのだけど。なんかすごく追いつめられちゃって。全窓を開けたり閉めたり。二階も。

 そうやって豆をまき続けていたけど、今年からとうとうやめることにした。
 周りの人たちが「子供が中学生くらいになる頃にはやめた」と言っているのを知って、えっそんなものなのかって。追いつめられてまくのもしんどくてやめたかった。
 そもそも何故私がこだわりがちなのか振り返ってみると、母方の祖母が節分にこだわりがあったからだと気づいた。
 祖母は年末年始の決め事にもやたらにこだわっていて、いつかそれについて書きたいと思っている。振り回されるのは家族で、特に母は気の毒なほどだった。

 太巻きだって皆が皆食べなくて良いだろうに、全国に広まっている。私は40年以上前の小学生の頃、すでに太巻きを食べる習慣があった。一口目だけ吉方を向いて食べたら、あとは普通に会話しながら食事していた。
 昨年両親は、小さく切って食べたよーと話していた。そりゃそうだよね。

 他の地域ではけんちん汁を食べる風習もあるらしく、イワシも食べたら良いと言われるし、ようするに季節が変わる時には身体に気を使ったものを食べましょうってことよね。
 これを機会にちょこちょこ調べていると、炒った豆、梅干し、塩昆布をお湯に入れて飲む習慣もあると知った。美味しそうだから試してみたい!

 ところでスーパーで豆だの太巻きの予約だの、目にすると思い出すのが義母。
 この時期になると毎年、北海道の文化から落花生やうぐいす豆などの豆菓子を送ってくれた。
 夫や息子と楽しんだ落花生や鬼のお面は、義母からの贈り物だったのだ。

 年によっては一緒にチョコレートを入れていたり、そうでなければ数週間後に分けてチョコレートを送ってくれた。
 段ボール箱には他にも色々と入っていて、最初こそ困ったけど、年々豆菓子やチョコレートが楽しみになってきたものだった。

 息子が大学生になった頃からなくなったけど、それまで毎年続けてくれていた。
 スーパーで豆コーナーを前に顔を上げて思いをはせる。

 こうやってその人の記憶は、日常に入りこんでいて、ふと思い出すんだな。でも思い出すことがあるって悪くない。
 気持ちをそこに少し残したまま、また歩くのだ。



読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。