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『車輪の下』ヘルマン・ヘッセ著
町で一番の天才少年であったハンスが、試験によって選抜された各地の才子たちと神学校の寄宿舎で過ごすようになった。
本作の前半では、そこで起こった青少年期特有の友情に基く葛藤、幼い利己心からのぶつかり合い、個性の伸長とそれを枠に抑えようとする規律との闘争などが描かれている。
車輪の下という言葉は、ドイツ語で「落ちこぼれ」を意味する。この車輪が何に由来するのかは諸説あるようだ。
その中で注目したいのは、ローマ神話の女神フォルトゥーナが司っているのが運命の輪であり、この輪のことを指しているのではないかという説だ。運命の輪からこぼれ落ちると、悲運に見舞われるといった伝承がある。輪と車輪との違いはあれど、この説に一番納得がいった。
神聖ローマ帝国を国の原型として持つドイツなので、ローマ神話との繋がりも自然であるように思えるのだ。
親からも、また故郷の町の人々からも厚く期待されたハンス少年はしかし、物語の後半になると神経衰弱に陥り、神学校での生活ができなくなる。
そのため彼は町に戻されることになるのだけれど、彼が神経を病んでいく過程が、私がうつ病になった時とそっくりで胸が痛くなった。
授業中、教師から指名されてもうまく反応できない。常に頭痛がする。四六時中罪悪感のようなものを感じている。以前は何気なくしていたことが、どんなに集中してもできなくなる。そういったハンスの様子が、うつ病の典型症状と重なるのだ。
また、神学校から放たれ、故郷の町で療養し、少しだけ回復した時にハンスが唯一意欲的になれたのは、木の枝に縄を掛けてくびれてしまおうといった自死についてのことだけだった。これも、うつ病の回復の初期に希死念慮が高まることと符合する。
著者自身ノイローゼに悩ませられたと解説にあり、さもありなんと腑に落ちた。道理で神経症者のことを生々しく書けるはずだと。
物語は悲劇で幕切れとなるのだけれど、その原因が神経症には直接関わっていないのには、同病に悩む私にとってわずかながらの救いであったように思う。
健康な一般読者にとっては、悲劇は悲劇でしかないのかも、と思うのだけれど。
多かれ少なかれ、このハンス少年のように、勉強だけはできるのだけれど、それ以外の人付き合いや生活上の雑事、それから恋愛が異様に下手な人というのは結構な割合でいる。私の経験で言うと、小学校、中学校、高校と、クラスに一人はいたと思う。
それを詰め込み教育の犠牲だと見るきらいはあったし、私も最近までそう思っていた。そういった人は、大体が親から過度な勉強を強いられていたからだ。
けれど、世に出て様々な人を見、様々な経験をする中で、与えられたことは上手くできるけれど自発的には動けない人というのが多くいることがわかってきた。彼らの親も、それがわかっていたから、あるいはそう直感したから、せめて勉強だけは、と迫っていたのかもしれない。
他人事のように書くけれど、私もそういった受動型人間の一人だ。それほどきつく親から勉強を押し付けられたわけではないのだけれど。
引きこもりの中にも、役割を与えられれば車輪を上手く回せるようになる人は無数にいると思う。
人手不足を叫ぶ前に、そういった人手を回収する輪がまず必要なのではないか。
ハンス少年だって、悲劇に見舞われなければ、新たに職人として再出発した世界線の上で淡い恋の相手エンマとも結ばれ、うまく生活できていたかもしれないのだから。
その可能性を思いながら、現代の日本社会を見詰めてみた。随分と甘い見方であることはひしひしと感じるのだけれど。
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