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民俗行事を再興-川越の七夕まつり-

8月7日午後7時より、境内にて「七夕まつり」を斎行いたします。
それに先立ち、午後6時より舞殿にて巫女舞や神楽の奉納がございます。
どなたでもご参列いただけます。ぜひお越しください。

七夕行事は中国や日本の古代伝説、民間信仰、お盆文化などが長い時間をかけて融合し、現在の形になったとされています。七夕短冊だけではない、地域性豊かな川越氷川神社の七夕まつりをご紹介させて下さい。


中国から伝わった星まつり伝説

中国に古くから伝わる「星まつり」の伝説のひとつに、現在広く知られている、天空一の神様(天帝)の娘「織女しょくじょ」とまじめな牛飼い青年「牽牛けんぎゅう」の物語があります。

織女と牽牛はもともと勤勉で働き者でしたが、結婚後に仕事を怠けるようになったことから、天帝の怒りを買って天の川の両岸に引き離されました。

悲しみに暮れる2人を不憫に思った天帝は、一生懸命働くならばと慈悲をかけ、年に1度、7月7日の夜にだけ再会を許しました。

この伝説に由来する織女にあやかり、裁縫技術の上達を願うお祭「乞巧奠きっこうでん」が唐(618年-907年)の時代に行われるようになりました。

日本へは奈良時代にこの伝説とお祭が伝えられて宮廷行事になるとともに、『万葉集』にも多くの七夕祭が詠まれるようになりました。

境内を幻想的に彩る「光る川」

光る川

夏の夜には、境内を流れる小川の底を灯す「光る川」が出現します。

当神社の創建由緒書に伝わる「入間川の川底に毎夜光る霊光があり、その光の源を辿ったこの地に神社を祀った」という文言から、創建時の風景を表現したものです。
天の川にも似て、七夕の夜景を幻想的に引き立ててくれます。

民俗行事としての七夕まつり

今日の七夕まつりといえば、笹竹に願い事を書いた短冊を飾る風習が馴染み深いかと思います。

この風習は意外にも新しく、江戸時代に寺子屋教育が普及する中で、筆の上達を願って行われるようになったとされます。

これらは主に都市で広まったもので、地方では各地それぞれの風習がありました。

鳥居清長「子宝五節遊 七夕」寛政年間(1789 ~ 1801) 江戸東京博物館蔵

例えば7月7日を「七日盆なぬかぼん」とよび、お盆を迎えるためにお墓参りやお墓掃除を行ったり、あるいは、精霊を迎えるために藁で馬を作り屋根に上げたりする地方があります。ほかにも、水神祭りや井戸替えを行い心身を清めるみそぎを行うところがあります。

こうした事例から、七夕まつりには禊と精霊迎えの二重の意味があることが分かります。

実際に祭典で七夕竹を立てたり、川に竹を流したりする背景にはこうした意味が含まれているのですね。

川越の七夕まつり

川越での七夕まつりは、どのような行事だったのでしょうか。

昔から月遅れの8月7日に行われてきました。
お祭り当日の朝、子供たちは里芋畑に行き、葉の上の露を集めた水で墨をすすって短冊にお願い事を書きました。

縁側の柱に立てかけた笹竹に短冊を飾り付けるとともに、物干し竿の両端に葦で作った「七夕馬」を一対向かい合わせにして跨らせていたとされます。

そのあいだ、家では大人たちが収穫したばかりの麦の新粉で「七夕まんじゅう」を作っていました。夜になり、星が出ると家族は集い、「七夕さま」にお供えしたおまんじゅうをみんなでいただいたそうです。

川越氷川神社での祭典の流れ

当神社でも昔ながらの慣習にならい、8月7日に祭典を行います。

宮司が祝詞を奏上した後、神社裏の新河岸川に笹竹を流し、全員で拝礼いたします。
ご参列の皆さまにはお供え物の「七夕まんじゅう」をお頒けいたします。

この「七夕まんじゅう」は第21代宮司 山田勝利かつとし(明治42年~平成12年)が子供の頃に食べた素朴で懐かしい味を再現しており、小麦粉・重曹・小豆・砂糖のみで作られています。

前稿でご紹介した和菓子店「伊勢屋」さんには年季の入った焼鏝が受け継がれている

祭典の前には午後6時から舞殿にて巫女舞や神楽の奉納、紙芝居上演など様々な催しを予定しております。ぜひ夕涼みをお楽しみください。 


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