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友だちってどう作るん?

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

読書会に参加される方の中には、大人になってから今まで仲良かった人と疎遠になったため、新しく交友関係を広げたいという希望でいらっしゃる人も多い。

特に私のような読書好きは、なかなか好きな本について語り合える人も少ないものである。そういう交流関係を広げる場を提供できているのも、読書会を続けることの価値だと思っている。

とは言え、私自身のことを言うと、正直”友だち”というのものがよく分かっていない。

読書会では”主催者”と”参加者”であるし、連絡先は交換するが、あくまでも情報共有の側面が強い。

人によっては連絡先を交換したら友だちだとか、こんなにも好きな本について語っているのだから、それだけで友だちだよと言われるが、自分ではいまいち腑に落ちていない。

そんな経緯から、前々から気になっていた|菅野仁《かんのひとし》さんの「友だち幻想」筑摩書房 (2008) を紐解いた。中高生向けに、学校という集団行動のなかで、他人とどうやりすべきかという問いについて解説している。

「みんなで仲良くしなければならない」という共同性の呪縛のような考え方は、「フィーリング共有関係」だけを前提に考えているからそうなるのです。

同著 83頁より抜粋

読書会でもそうだが、人間関係というのは、なるべく価値観が一緒の人のほうが楽しいとは思う。オタク同士は気が合うように、好きなものが同じ人ってのは、仲良くなりやすい。

でも、社会に出たら、当然自分とは価値観が合わない人っていうのは現れる。自分に対して、嫌なことをしてくる人や、いるだけで不安な気持ちになるような人もいる。

そもそも私自身、小学校の頃から「みんな仲良く」という雰囲気が苦手だった。

例えば、学生時代は一貫して、隣の席の女の子の名前を覚えることすらしなかった。それがカッコいいとかではなく、なぜ隣の席になっただけの人の名前を覚えねばならないのか、その意味がよくわかなかった。

そりゃ大人になってからは、流石に先輩や上司の名前を覚えるようになった。でもその根底には、仕事を教えて頂くとか、何かを依頼すると言った、いわゆる利害関係が存在する気がする。

ただ、私にとっては、学校時代にはそれがなかった。隣の席の人の名前を覚えなくても、私の学生生活に何も支障はないと思っていたし、今でもそう思う。

それと、とりあえずその場にいるという考え方も、高校1年生の時点で早々に捨てた。いや、捨てざるを得なかったというべきだが、とにかく意味もなく”そこにいる”というのをやめた。

個人的には、それで良かったと思っている。人が集まっているときの、あの”いなければならない感”は、個人的にはしんどい。

じゃあ学校では全く友だちを作らなくていいかと問われたら、それはNoだと思う。学校時代の思い出は、誰かと過ごしたものである記憶が多いということは否めない。

著者自身も、信頼できる「他者」を見つける感覚が大事だと述べる。

過剰な期待を持つのはやめて、人はどんなに親しくなっても他人なんだということを意識した上で信頼感のようなものを作っていかなくてはならないのです。

同著 128頁より抜粋

価値観が全く同じ人は存在しない。同じ趣味や共通点があったとしても、所詮は自分とは違う他者である。だから無理して人と仲良くなろうと思わなくてもいい。

人によっては冷たいと思われるかもしれない。でも、そう思った方が生きやすい人もいる。そもそも私の学校生活は、そんな感じだったし。

とは言え、私自身友だちは少なかった方だが、一人もいなかったわけではない。

オタクだったから類友はいたし、高校時代に仲が良かった奴とは今でも飲みに行く。読書会の参加者の中にも、会を超えて仲良くなる人も少なくはない。

無理に友だちという定義や枠にこだわらず、この人といたら、なんか楽しいって思える。そんな感覚を覚える人に出会えただけでも、充分だとなんだと思った。

そんな価値観にもかかわらず、いやだからこそ、読書会の主催者やってます。それではまた次回!

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