友だちってどう作るん?
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
読書会に参加される方の中には、大人になってから今まで仲良かった人と疎遠になったため、新しく交友関係を広げたいという希望でいらっしゃる人も多い。
特に私のような読書好きは、なかなか好きな本について語り合える人も少ないものである。そういう交流関係を広げる場を提供できているのも、読書会を続けることの価値だと思っている。
とは言え、私自身のことを言うと、正直”友だち”というのものがよく分かっていない。
読書会では”主催者”と”参加者”であるし、連絡先は交換するが、あくまでも情報共有の側面が強い。
人によっては連絡先を交換したら友だちだとか、こんなにも好きな本について語っているのだから、それだけで友だちだよと言われるが、自分ではいまいち腑に落ちていない。
そんな経緯から、前々から気になっていた|菅野仁《かんのひとし》さんの「友だち幻想」筑摩書房 (2008) を紐解いた。中高生向けに、学校という集団行動のなかで、他人とどうやりすべきかという問いについて解説している。
読書会でもそうだが、人間関係というのは、なるべく価値観が一緒の人のほうが楽しいとは思う。オタク同士は気が合うように、好きなものが同じ人ってのは、仲良くなりやすい。
でも、社会に出たら、当然自分とは価値観が合わない人っていうのは現れる。自分に対して、嫌なことをしてくる人や、いるだけで不安な気持ちになるような人もいる。
そもそも私自身、小学校の頃から「みんな仲良く」という雰囲気が苦手だった。
例えば、学生時代は一貫して、隣の席の女の子の名前を覚えることすらしなかった。それがカッコいいとかではなく、なぜ隣の席になっただけの人の名前を覚えねばならないのか、その意味がよくわかなかった。
そりゃ大人になってからは、流石に先輩や上司の名前を覚えるようになった。でもその根底には、仕事を教えて頂くとか、何かを依頼すると言った、いわゆる利害関係が存在する気がする。
ただ、私にとっては、学校時代にはそれがなかった。隣の席の人の名前を覚えなくても、私の学生生活に何も支障はないと思っていたし、今でもそう思う。
それと、とりあえずその場にいるという考え方も、高校1年生の時点で早々に捨てた。いや、捨てざるを得なかったというべきだが、とにかく意味もなく”そこにいる”というのをやめた。
個人的には、それで良かったと思っている。人が集まっているときの、あの”いなければならない感”は、個人的にはしんどい。
じゃあ学校では全く友だちを作らなくていいかと問われたら、それはNoだと思う。学校時代の思い出は、誰かと過ごしたものである記憶が多いということは否めない。
著者自身も、信頼できる「他者」を見つける感覚が大事だと述べる。
価値観が全く同じ人は存在しない。同じ趣味や共通点があったとしても、所詮は自分とは違う他者である。だから無理して人と仲良くなろうと思わなくてもいい。
人によっては冷たいと思われるかもしれない。でも、そう思った方が生きやすい人もいる。そもそも私の学校生活は、そんな感じだったし。
とは言え、私自身友だちは少なかった方だが、一人もいなかったわけではない。
オタクだったから類友はいたし、高校時代に仲が良かった奴とは今でも飲みに行く。読書会の参加者の中にも、会を超えて仲良くなる人も少なくはない。
無理に友だちという定義や枠にこだわらず、この人といたら、なんか楽しいって思える。そんな感覚を覚える人に出会えただけでも、充分だとなんだと思った。
そんな価値観にもかかわらず、いやだからこそ、読書会の主催者やってます。それではまた次回!
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