見出し画像

蔵書家の最終形態(?)

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

蔵書家というわけではないが、本は自分の所有物として残しておきたいタイプ。捨てられずに本棚に並んでいる本が沢山ある。

暇だから頻繁に神保町に行くと語ると、大抵はやっぱり古本や古書を探しているんですかと問われるが、何か特定の古書を探しているという気持ちはほとんどない。

むしろ、本であれば基本なんでも良い性格。初版を集めているのだとか、状態の良いものを優先しているとか、そういう基準はない。強いて言えば、読んだことのないジュール・ヴェルヌの作品を探すくらい。

でも世の中には、自分の蔵書は自らの所有物だと誇示する方法もあるそうだ。

例えば、玉川重機さんの「草子ブックガイド」を読んだ際に、自分の所蔵本であることを示すために「蔵書票」という物がある事を知る。他にも図書館のように「蔵書印」を押すこともある。

だが、今読んでいるヘルマン・ヘッセの「ヘッセの読書術」草思社によると、もっと自分の本だという証にしたいのならば、装幀まで自分の希望にしてしまおうと言う。

それぞれの本の共同製作者となって、そして自分の本をこの世にある他のすべての本とはっきりと区別するということから、その本をもつよろこびをいっそう大きなものにするという独自の魅力が生じるのである。

同著 34-35頁より抜粋

蔵書家もそこまで行くと、天晴としか言いようがない。流石にここまでするのはどうかとも思うけれども、全く憧れないこともない。

無論、私の本棚は、他ならぬ私だけが作り上げた本棚ではあるけれども、仮に1冊他の人の本と差し替えられたとしても、おそらく気が付かないかもしれない。

それが余程思い入れのある本だとか、書き込みばかりの本だったとかなら分かるだろうけれども、一度読んだくらいの本だったら、表紙を見ただけでは気づかないだろう。

蔵書票や蔵書印がついていなかったらいなかったで、付け忘れたんだろうとも思ってしまうだろう。仮に差し替えられてもまた付ければいいだろうってなるかも。

だが、装幀まで自ら施した蔵書ならば、この本は他ならぬ私の本だと見せつけられる。きっと差し替えようとした人も、恐れをなして逃げ帰るのでなかろうか。

とは言え、ここまでくると、本当に蔵書家の最終形態とも言えるのではないかとも言える。

それが非常に希少な書籍だとしたら、「そのままの状態」であることを望む古書の世界において、自らの所有物という証にすべく裁断することになるだから。

いやはや、そこまで価値のある本は持っていないにしても、そういう蔵書の方法も憧れるなってお話。それではまた次回!

今日もお読みいただきありがとうございました。いただいたサポートは、東京読書倶楽部の運営費に使わせていただきます。